ベトナム戦争開戦から、ドイモイ政策へ ~世界に残したベトナム戦争と、カンボジア ポル・ポト政権の傷跡~

強大な軍事力に、外交戦が勝利した、ベトナム戦争

1965年11月。宣戦布告も行われないまま、第二次インドシナ戦争、すなわちベトナム戦争は、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と、統治能力が崩壊したベトナム共和国(南ベトナム)に代わるアメリカ合衆国との間で、開戦した。

アメリカは、太平洋戦争で、圧倒的な物量と核兵器の力で、大日本帝国を制圧して無条件降伏に追い込んだ、その奢りから、ベトナム戦争もまた、圧倒的な軍事物量のチカラで、短期間に終戦をさせるつもりであったと言われている。

そのため、激しい北爆を開戦当初から行い、北に向けて侵攻した。これに対し、北のホー・チミンは、軍事的な物量では圧倒的にアメリカに劣ることを悟り、正攻法での戦闘を回避した。ベトナムを覆っているジャングルにアメリカ軍を誘い入れ、テロリスト的な戦法を繰り広げるとともに、アメリカ軍の非人道的な攻撃を世界に発信するという、現代戦的な外交戦術を繰り広げた。

熱帯ジャングルに引き込まれたアメリカ軍は、ジャングルに慣れた北ベトナム軍や民間の抵抗だけでなく、そこに蔓延するマラリア蚊や、ジャングルに点在する底なし沼と闘わなければならなかった。その戦闘は、対日戦争のように、制空権を制覇し、空爆に空爆を重ねるような戦闘とは異質だった。

恐怖に駆られるアメリカ軍の戦闘意欲をかき立たせるため、アメリカ軍は、コカインを兵士たちに配る。これを吸引した兵士は、「狂った戦闘員」となった。「抗米救国戦争」という名称で、ベトナム全土の村々が決起し、そこに狂った米軍が乱入した。

民間人を虐殺し、ベトナム女性を強姦しまくるアメリカ軍の姿は、世界のジャ-ナリストや北ベトナムによって、世界に発信された。この北ベトナムの外交戦術は、大国ソ連を動かした。アメリカの評判を落とす絶好の機会と見てとったソ連は、北ベトナムに最新式の地対空ミサイルなど、軍事物資の無償提供を開始したのだ。

ベトナム戦争は、ついに、アメリカ合衆国対ソビエト連邦、という、冷戦を代理する熱き戦争に発展した。中国、東欧諸国、そしてキューバ。続々と、北への支援は拡大した。

更に、状況はアメリカに悪くなった。自由主義陣営諸国、そしてアメリカ合衆国の国内でも、反ベトナム戦争の狼煙があがったのだ。

例えば、日本。
太平洋戦争後、奇跡の経済成長を遂げた中で、日本人は、自民党政治と経済至上主義に厭世していた。ここに起きたベトナム戦争におけるアメリカ軍の蛮行に対し、反米・共産主義世界同時革命を志向する学生たちによる、極左運動が日本の大学を覆う。60年安保闘争である。

この日本の学生極左運動は、共産主義者同盟赤軍派と、日本共産党京浜安保共闘が、1971年に同盟して誕生した連合赤軍の結成により、頂点を迎える。

21世紀に生きる我々日本人には、日本が、50年前に起こした反・日米安保条約と、共産主義世界同時革命志向などという発想は、最早、まったく理解不能になっている。何故、60年安保闘争や、70年安保闘争という狂気を、たかだか50年前の日本人が抱いたのか?理解に苦しむわけだ。

しかし、この当時の日本人を反自由主義・共産主義親派に押しやったのは、実は、ベトナムのホー・チミンだったのだ。当時、日本は、日本を覆っていた共産主義組織を通じて、北ベトナムを支援していた。日本人の中に燃え上がった反米と、その感情に基づく日米安保体制反対運動が、ベトナム戦争での北ベトナム支援を醸成した。今でも日本に、中国が嫌いでも、ベトナム好きが多く、そして、現在のベトナム人に、日本の親派が多い理由の一つが、ここにある。

何と、歴史とは皮肉なことか?

最早、今の日本には、共産主義の影響など、全く消え果ててしまっているが、ベトナム戦争に勝利した、社会共産主義の北ベトナム政府と日本は、相互にシンパシーを持っているのだ。日本では、今でも、中国共産党を批判的に報道するメディアも、ベトナム共産党に対しては、全く批判的な報道をしないのである。

日本の極左運動は、連合赤軍の内ゲバという、堕落の中で終息する。世界同時革命という崇高な理想を掲げたはずの極左に走った若者たちは、最後には、コップの中の勢力争いや、「総括」という名のリンチ事件で、日本人からの支持を失って崩壊する。この崩壊による、若者の絶望が、その後の1970年代後半以降、日本の大学を「レジャーランド」とまで呼ばしめる、大学教育の堕落に繋がっていく。

さて、ベトナム戦争の影響は、本国アメリカに、更に深刻な事態を齎した。

戦争当事国のアメリカでも、日に日に、反ベトナム戦争の世論が高まった。ベトナムで、ベトナム民間人を虐殺し、ジャングルを焼き払って枯葉剤を散布し、若いアオザイを纏った若いベトナム人女性を強姦しまくるアメリカ軍に対する反対運動はアメリカ国内で、極地に達した。そして、ついに、アメリカ政府は、ベトナム戦争を遂行することが不可能になってしまったのだ。

圧倒的な軍事力を誇るアメリカが、外交力とテロリスト戦で戦う北ベトナムに、敗北して撤退するよりほか、なくなってしまった。そして、まさに、このベトナム戦争こそ、現代のアメリカ合衆国の挫折、そして「強いアメリカ神話」にアメリカ人が自信を失う、転落のスタート地点の出来事になってしまったのだった。

アメリカに暮らしてみると、このベトナム戦争というものが、その後、アメリカ社会に、いかに深い傷を残したか、よくわかる。

今、我々日本人も、それを垣間見ることができる。
一番わかりやすいのが、映画「ランボー」シリーズ、だ。

主人公のランボーは、ベトナム帰還兵の英雄だ。その、国から最も栄誉を与えられなければならない、ランボーが、アメリカ社会で、つまはじきにされ、居場所を失い、祖国から愛されない孤独の中に生きている、というのが、ランボーシリ-ズを一貫するコンセプトだ。その悲哀に満ちた戦士を、シルベスター・スタローンが、見事に演じ切っている。

ランポーの中で、一番、ベトナム戦争を象徴するシーンがある。
ランボーのベトナム戦争の回想シーンだ。

ランボ-が、出撃命令に対して、次のように上官に尋ねる。
「今日は、勝ってもいいですか?」、と。

そう、ベトナム戦争とは、アメリカの圧倒的な軍事力を、世界の世論が敵前の兵士に使うことを許さないようになってしまった戦争なのだ。

そして、国の英雄だったはずのランボーが、仲間が次々に死んでいく中、いのちがけで、ベトナムで戦い、帰国した、そこに待っていたアメリカ人たちは、このベトナム帰還兵に石をぶつけ、彼らを社会から廃絶し、ランボーを危険な殺人鬼に見立てて、拒絶するところから、ランボーシリーズは始まる。これが、ベトナム戦争の悲惨な姿だ。

「戦士は国家を愛する。その愛に、国家は応えてほしいだけなんだ。」
ランボーが、ベトナム戦争時代の上官に声を振り絞る。この叫びが、ベトナム戦争から帰還した兵士の声だった。

このような残酷な状態にアメリカを陥らせ、そして、ホー・チミンは、強大なアメリカに勝ったのだ。

カンボジア侵攻から、ドイモイ政策へ

南ベトナム全土を開放し、勢いにのった北ベトナム人民軍は、「ホー・チミン作戦」と名付けたサイゴン攻略作戦を決め、1975年4月30日に、ついに、サイゴンは陥落する。彼らは、サイゴンを、ホー・チミンと名称を変えた。そして、ベトナム戦争は終結した。

1978年12月25日。ベトナム義勇軍は、ヘン・サムリン率いるカンプチア救国民族統一戦線の求めに応じて、隣国のカンボジアに進攻。カンボジアを恐怖に陥れた、ポル・ポト政権を打倒し、カンプチア人民共和国を設立した。

しかし、ベトナム戦争では世界の世論を味方につけたベトナムは、今度は、大きく失敗する。カンボジアに長期的に駐留することになってしまったベトナム軍は、カンボジアではベトナム国内から大きな批判をあびることになった。

ポル・ポト派は、カンボジア・タイ国境のジャングルに逃げ込み、ここでテロ攻撃を繰り返した。今度は、ベトナム軍が、ポル・ポト軍にジャングルテロ攻撃を受ける番になってしまった。

地雷原に埋められた地雷で命を失ったり、片足を吹き飛ばされて障害者となるベトナム人の若者が続出したのだ。駐留に伴う経費は、ベトナム経済をどん底に陥れてしまい、ベトナム軍は、国民の評判を失う。そして、カンボジアから撤退。

この経済的なドン底状態から脱却するため、ベトナムは共産主義政権でありながら、その後の経済的飛躍につながる、ドイモイ政策を採用することになる。

中国・フランス、そしてアメリカ。大国に翻弄され続けたベトナムに、その後の経済成長の契機となる、ドイモイ政策の「夜明け」が、ここでようやく見えてくることになるのだ。

続く

本稿の著者

松本 尚典
URVグローバルグループ 最高経営責任者兼CEO
URV Global Mission Singapore PTE.LTD President

松本 尚典

  • 米国公認会計士
  • 総合旅行業務取扱管理者

米国での金融系コンサルタント業務を経験し、日本国内の大手企業の役員の歴任をえて、URVグローバルグループのホールディングス会社 株式会社URVプランニングサポーターズ(松本尚典が100%株主、代表取締役)を2015年に設立。
同社の100%子会社として、日本企業の海外進出支援事業・海外渡航総合サービス事業・総合商社事業・海外の飲食六次化事業を担う、URV Global Mission Singapore PTE.LTD(本社 シンガポール One Fullerton)を2018年12月に設立。
現在、シンガポールを東南アジアの拠点として、日本企業の視察・進出・貿易の支援を行う事業を率いている。
ベトナムのTPP参加による、飲食事業等・サービス業の規制緩和を受けて、ベトナムへの飲食事業進出・食材の貿易事業・ベトナム飲食事業進出コンサルティング事業・ベトナムビジネス視察支援事業のため、2021年9月にホーチミンオフィスを開設。

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