飲食事業成長軌道編 第1話「沖縄恩納村」

前回のニューヨークウォール街ビジネス始動編 第4話「反撃」はこちら

沖縄のリゾートにて

ゴールデンウィークが終わった5月の沖縄那覇空港は、観光の混雑が明けて、落ち着いた姿を取り戻していた。空港のあちこちで、修学旅行の中高生の団体が、楽しげに集っている。

山之辺伸弥と、山之辺が銀座に副業で経営する花月に務める奈美は、ANA便のスーパーシートから、ここ、那覇空港に降り立った。

銀座花月が開店して、あと少しで1年半。土・日・正月以外で、休みをとったことがない奈美に、花月で有給休暇をとらせて、山之辺は、沖縄に連れてきた。

奈美は、同じく銀座花月に務める雪子と、かつてはレズビアンの同棲関係にあった。その雪子が、山之辺が本業で務める株式会社バリューフェスの副社長 坂田将の愛人関係に入ってから、奈美と雪子の二人は、そのレズビアンの関係を解消していた。

そして、いつしか、山之辺と、雪子と離れた奈美は、恋人の関係になっていった。

山之辺の本業の企業、株式会社バリューフェスにおける山之辺の立場も、今、また大きく変わろうとしていた。

山之辺が、バリューフェスに転職する前に、トップセールスを張っていた積山ホームに、その系列である三洋銀行から、営業の強化指導者として派遣されていたのが、当時の三洋総合研究所の松木陽介。その松木は、三洋グループからハーバートビジネススクールに社費留学し、今では、ニューヨ-クのWwWコンサルタンツのシニアコンサルタントとなっていた。

その松木から、山之辺を通して、バリューフェスに提案されたのが、ProjectAとProjectBの2案だった。

松木が株式会社バリューフェスに提案した内容は、ニューヨークウォール街ビジネス始動編 第4話「反撃」をご参照ください。

株式会社バリューフェスの坂田将副社長は、この2つのプロジェクトをライバルである阿部取締役の暗躍の裏をかいて取締役会で採択するため、山之辺に松木との接触を調整させ、雪子をつれたプライベートのお忍び旅行という名目で、ニューヨークに極秘渡航し、松木と会った。

松木は、バリューフェスの海外進出支援セクションの責任者、阿部洋次取締役が、短期的な視野で、ProjectAのみを採用しようとしていたことを知ると、世界に分散させてある自身の資産を出動して投資に振り向け、バリューフェス株を買い進んだ。そして、両案をバリューフェス社が決定したという情報を、ウォールストリートジャーナルに流し、バリューフェスの株価を急騰させて、自身も、発行済株式の3%を取得するまで買い進み、バリューフェスの大株主になった。

バリューフェスが、松木の提案を取締役会で承認採用してから、この株を松木が取得すれば、松木は、アメリカ合衆国のインサイダー規制法違反の刑事罰に問われる。しかし、松木が行った投資行為は、阿部が、坂田に隠して、バリューフェスの創業者で社長の大井川秀樹に図っている時点での、迅速な行動によるものだった。

アメリカ合衆国法にてらして合法的に株式を取得し、バリューフェスの大株主になった松木が、一転3%もの株式を売り抜け、ウォールストリートジャーナルが報道した事実の一部が、フェイクであったという情報を松木が流せば、バリューフェス株は、一転、大暴落に陥る。

既に、国内の安定株主から、次期社長と目され、社内の取締役会の意向をすべて抑える坂田副社長は、阿部と大井川社長の行動を出し抜いて、山之辺の設定で、ニューヨ-クに極秘で飛び、大株主であり、ProjectAとProjectBの仕掛人でもある松木との間で、両案を、取締役会で決議をする確約を申し入れた。そして、松木と、バリューフェスの顧問コンサルティング契約を締結することを約したのである。

一方、松木は、国内のバリューフェスの安定株主である機関投資家と歩調をあわせ、坂田を株主総会で支援することを、坂田に約した。

ここに、坂田・山之辺、そして、松木という、次世代のバリューフェスの中核を担うメンバーの協力関係が、水面下で出来上がった。

日本にとって返した坂田副社長は、大井川社長の同意をえずに、緊急取締会を招集。その取締役会で動議を起こし、大井川・阿部の2名の取締役欠席のもとで、他の全取締役の承認をえて、ProjectA案と、ProjectB案の動議を可決。その日のうちに、日経新聞の担当記者にプレスリリースを行った。

かくして、ウォールストリートジャーナルの報道は、事実を報道した特ダネ記事だったということに、後付けでなったわけである。

国内の安定株主は、驚喜した。

ドメスティックな、OA販社に過ぎなかったバリューフェスが、韓国の財閥系企業とのビジネスに食い込み、更に、原油ビジネスに進んで、SDGsの分野で輝かしい変身を遂げて、株価を3倍に大躍進させたのであったから、安定株主たちの含み資産は、大幅に上昇したのである。

最早、その実績を踏まえて、あと1月後に控えている定時株主総会で、坂田を代表取締役に選任する動きを、創業者である大井川には、止めることが難しい情勢となっていた。

これが、目まぐるしく起きた、この間の大きな事件であった。山之辺は、この間に起きた事態を、那覇空港を歩きながら、想起していた。

那覇空港の中に流れる、琉球音楽の軽い音色を楽しみながら、山之辺の横で、カートを引っ張って歩いていた奈美が、この間の出来事を想起しながら歩いていた山之辺に、声をかけた。

「山之辺さん。沖縄に遊びに来ても、仕事のこと考えているんだね。」

山之辺は、我にかえって、奈美に微笑み返した。奈美と、二人で、沖縄に来ているのである。仕事のことを忘れて、奈美と最高の時間を過ごさなければならない。

二人は、手荷物検査場から出て、迎えを探した。二人が宿泊するのは、那覇から北に位置するリゾート地、恩納村にある、東洋ヒルズ沖縄リゾート。

東洋ヒルズ沖縄リゾートは、全室がスイートルームで、各スイートルームにはプライベートプールがついている、沖縄の最高級リゾートホテルだった。東洋ヒルズ沖縄から、那覇空港まで、専用リムジンが送迎に来てくれるのである。

アロハシャツを着ている現地のレンタカーや、ツアーの送迎の中から、ハイヤーの運転手のように、ピシッとした服装の、東洋ヒルズ沖縄の送迎の運転手を見つけるのは、簡単だった。

運転手は、山之辺と奈美に丁重な挨拶をすると、二人のカートを受けとり、巨大な長い車体のロールスロイスのリムジンに、二人を誘った。

取締役会後の坂田副社長は、従来の安定株主に加えて、外国人投資家に位置する松木の支持を受けた。松木は、坂田との会談後、ウォール街から、東京株式市場を睨み、バリューフェスの株の売り玉のすべてを吸収する、強い買い方に回っていた。

既に今、松木の保有株は、バリューフェスの発行済株式の4%に達していた。

バリューフェスとの正式な経営顧問契約締結を行ってしまうと、その後のバリューフェスの株式取得は、インサイダー取引規制法に反することになる。そのため、松木は、バリューフェス株の取得を、今、急いでいた。

坂田は、安定株主からの信頼と、新たに増え続ける外国人株主の支持を基礎に、最早、大井川秀樹には、手の出しようもない勢力を短期間にバリュ-フェスで構築していた。

その坂田が、今、仕掛けているのは、あと1か月後に招集される定期株主総会での、代表取締役社長の交代の段取りであった。創業者である大井川にかわり、バリューフェスの第2代代表取締役社長への坂田の就任は最早、動かすことができない情勢となっていた。

4月も終わりのゴールデンウィーク前、坂田は、夜、銀座花月に訪れてきて、山之辺にこう語った。

「大井川社長との話し合いは、もう結論が見えた。次の6月の定時株主総会で、代表取締役を俺に交代することを認める御意向だ。

安定株主が、大井川さんを説得した。

そして、もう一つ。
山之辺君の上司の阿部取締役に、俺は、ゴールデンウィークの後、引導を渡すつもりだ。

彼には、取締役を辞任して貰う。もし、彼が辞任を断れば、株主総会で解任決議をする。会社の未来を左右するProjectBを、個人的な人事の思惑で、取締役会の検討もえずして、葬り去ろうとしたその責任を、彼にはとって貰う。

勿論、長年、バリューフェスに尽くしてくれた阿部取締役から、収入と仕事を奪うつもりはない。彼が、取締役の辞任を素直に呑んでくれれば、報酬はそのままで、執行役員として再雇用し、内部監査室の室長という、閑職のポストだけは用意するつもりだ。

彼には、そこで余生をおとなしく過ごして貰う。

親父の威光を笠に着て、ソウルで遊び歩いている、君の部下の大井川茂は、東京に戻し、人事部あたりの課長に異動してもらう。彼には、厳しい仕事をしてもらう。それが耐えられなければ、バリューフェスの経営者になどなれない。

そして、肝心の、山之辺君の人事だ。

君には、阿部取締役の後任として、海外進出の責任者を務めて貰う。

今や、海外事業は、韓国事業と、ProjectA ProjectBをあわせて、バリューフェス全体の売上に匹敵する、投資収益率と成長率を期待される事業を担う花形部門だ。社長室コンサルティング・デビジョンから、海外進出コンサルテイング・セクションを独立させ、新たに、代表取締役直轄の、海外事業部を置き、山之辺君は、事業部長に昇進して貰う。

独立採算制の事業部を、国内部門と並列させて作り、君にその全権を与える。

入社の時に、抑えた君の報酬も、上級管理職として、バリューフェスのトップのレベルまで昇給させよう。その代わりに、海外事業全体の責任を、山之辺君に負ってもらう。

株主総会で、俺が、代表取締役に選任されたと同時に、俺は、松木陽介さんを海外顧問に迎え、同時に、山之辺君に海外事業を任せる。

いいな。君は、これから、阿部取締役から離れて独立し、俺の直下で、海外事業を発展させろ。

会社としては、山之辺君の飲食事業の副業も認め続けるから、是非、大いに海外事業を発展させてほしい。

5月のゴールデンウィーク後は、俺が、阿部に辞任に関する協議を進める。阿部と山之辺君は、気まずくなるだろう。余っている有給休暇を長期で取得して、骨休みをしておいてくれ。」

これが、今、山之辺が沖縄にくるまでに、バリィーフェス社で起きた一連の出来事だった。

株式会社バリューフェス 海外進出コンサルティングセクションの人事組織構成は、以下の韓国クラウドビジネス編 第1話「スタートアップ」をご参照ください。

山之辺は、その坂田の勧めに従い、残っている有給休暇をすべて投入して休暇をとり、奈美に花月からの有給休暇を出して、沖縄に二人で、リゾート休暇に訪れたというわけだ。

山之辺と奈美を乗せたリムジンは、那覇市を抜け、国道58号線を北に向けて走っていく。アメリカ軍の基地が続く地帯を抜けると、車は、沖縄のサンゴ礁が織りなす海沿いの道に出た。

恩納村の海沿いを走る58号線から入った、小高い山の上に、東洋ヒルズ沖縄リゾートは位置していた。

飲食事業展開への布石

東洋ヒルズ沖縄は、沖縄のリゾートの中でも、最高級ランクに位置しているリゾートホテルだった。

限られた部屋数は、その全室がスイートルーム。そして、その全室のデッキには、充分な広さのプライベートのプールがしつらえてあることが自慢のホテルだ。

滞在中の朝食・昼食・夕食がとれる様々なレストランは、すべて時間予約制で、1組限定。店をすべて貸し切れる仕組みになっている。つまり、食事の時間は、そのレストランに他の客は誰一人おらず、そこを独り占めできるようになっている。レストランのスタッフすべてが、貸し切っている一組の客だけの料理に集中し、総力をあげてサービスをする。

勿論、その各店舗から様々な料理や酒を、24時間、いつでも、スイーツルームの部屋にルームサービスで運ばせ、スイートルームの部屋で、様々な食事や酒を楽しむこともできる。

多忙な山之辺にとって、奈美と付き合い始めてから、これが最初の二人だけの旅行だったので、山之辺は、高額な費用を投資して、今回、東洋ヒルズ沖縄に奈美と、はじめての旅行でゆっくりと、ここに時間が許される数日間を、滞在することにしたのだ。

送迎のリムジンは、静かに、丘の上に建つ、東洋ヒルズ沖縄のエントランスに滑り込んでいった。数名のスタッフが、客をエントランスで出迎える。

二人は、エントランスに広がる海を見下ろすラウンジに通され、ウェルカムドリンクのシャンパンを振舞われながら、東洋ヒルズ沖縄のスイートルームに、チェックインをした。

二人の部屋は、広いベットルームとリビングルームからなるスイートで、風呂は、二人で一緒に入っても入浴を楽しむことができる、ジャグジーバスだった。ベランダに出ると、そのウッドデッキの向こう側には、二人の専用のプールが美しい水をたたえている。そのプールサイドからは、遥か下に、紺碧の珊瑚海のリーフが臨めた。

沖縄西海岸にある恩納村は、東京よりも、かなり経度がユーラシア側に寄っている。そのため、日が伸びてきた五月の夕暮れの訪れが、東京よりもだいぶ遅い。

午後5時に、山之辺は奈美との初めての夜を過ごすため、鉄板焼きのディナーの店を貸し切ってあった。奈美は、ハワイで買ったアロハ風のドレスを纏い、山之辺の腕に自分の腕を絡めるようにして寄り添って、ディナーの店に向かった。

沖縄の野菜や、魚、そして、A5級の神戸牛を、シェフが見事な手つきで、焼き上げる。

スパークリングワインから、白・赤と、酒は進んでいった。

ゆったりとした夕食の後、二人は、酔った足取りで、彼らの部屋に戻った。奈美は、部屋の電気を消して、蝋燭の灯りだけをともした。

山之辺は、プールに浸かり、プールサイドに山崎のフルボトルを置き、ソーダー割りを自分で作り、琉球グラスを片手に、遠く海のかなたに、太陽が沈むのを、眺めていた。

時間が止まっている。この静かな止まっている時間が、永遠に続くのではないかという錯覚を覚える。

阿部洋次取締役からヘッドハンティングを受けて、バリューフェスに入社した、あの時が夢のように感じられた。韓国財閥系企業とのクラウドビジネス、そして、ニューヨークでの松木陽介との再会などのビジネスを進めるうちに、阿部と山之辺の距離は、大きく開いてしまった。

もう、入社したときの、阿部と山之辺の関係には、二人は二度と戻れないだろう。今、バリューフェスの新しい社長の坂田は、阿部を閑職へ退け、山之辺は、阿部の空いたポストに自ら就こうとしている。その時の移り変わりに、山之辺は、独りで想いを巡らせていた。

急速な下剋上だった。

バリューフェスは、既に、坂田が、創業者の大井川秀樹に代わる時代に入っていた。その圧倒的な手腕に対し、阿部は、大井川の同族の支配の事業承継という陳腐な手法で臨んでしまう愚を犯した。プライム上場企業という公器の企業のトップの戦略として、それは、余りにもチープな方法だった。

それによって、今、阿部は、ちょうど今頃、坂田から、取締役辞任を迫られている頃だろう。

バリューフェス入社の時に、固く手を握り合った阿部と山之辺は、阿部が山之辺の手腕を利用しようと企てたため、山之辺の反乱にあってしまった。今、阿部が落ち武者となって敗走を余儀なくされる城に、それにとって代わり、坂田の直下の将軍として、山之辺が入ることになってしまった。

太陽が沈みきり、夜の帳が落ちる頃、奈美が、ブルーにライトアップされたプールに、静かに入ってきた。山之辺は、仕事のことを、アタマから取り払った。

恋人同志で入る二人だけのプールで、奈美は水着などつける必要はなかった。奈美は、ビキニをつけずにプ-ルに入り、山之辺の隣に寄り添ってきた。

山之辺の呑んでいるグラスに、山崎のボトルから、ストレートで注ぎ足す。

「山崎をソーダでわっちゃうなんて、こんな夜にはもったいないもん。」

奈美は、そう言って、山之辺の腕に、豊かな胸を押し付けてきた。

山之辺が、実姉の優紀と経営する銀座 花月に、奈美は務めて、優紀の右腕となっていた。銀座の名門クラブ エルドラドのナンバーワンホステスだった優紀が、奈美を可愛がっていたから、奈美は、優紀が花月を創ると、一緒にエルドラドを辞めて、優紀についてきたのだった。

銀座 花月は、開店から1年半をもうすぐ迎える。

開店当初は、優紀や奈美の、エルドラドの常連客で満席となり、その後は、銀座のママや一流ホステスが同伴やアフターで使う店として、新規顧客を増やしてきた。そして、その多くは、常連となっていた。

客単価が20,000円を超える高級割烹として、花月は、繁盛を続けた。返済期間5年で借り入れた開業融資も、既に全額の繰り上げ返済を完了していた。取引銀行である、三洋銀行銀座支店は、花月に担当者をつけて、熱心に、山之辺に対して、2号店出店に向けた新規融資の営業を仕掛けてきていた。

一方、優紀には、大きな生活の変化があった。常連客の一人として店に通ってきていた、証券会社の若手の幹部が、熱心に優紀にプロポーズをしていた。優紀も、それに応えて、2人は交際をする関係に立っていたのだ。

優紀も、既に30代の半ばに差し掛かっていた。花月は安定していたが、このまま料亭の女将として40代を迎えれば、結婚の機会を失うことになる。山之辺も、実姉の人生の中で、それを密かに心配していた。今の日本では、女性が未婚のまま40代を迎えると、どんな女性でも圧倒的に結婚は不利になる。

ほとんどの未婚男性は、結婚相手の女性に若さを求める。若い女性の魅力とともに、子供の出産を重視するためだ。優紀が、花月の経営の忙しさに日々謀殺されて40代を迎えれば、優紀のような美貌の女性も、結婚は非常に難しくなる。優紀にプロポーズする男性が30代に現れたタイミングで、優紀が結婚を決意することが、優紀の人生にとって絶対に必要なことだと、山之辺は考えていた。結婚は、理性の問題ではなく、タイミングの問題だから。

しかし、一方、飲食事業としての花月の経営という観点からは、今が最も重要な時期だった。

開店から、あと半年で2年を経過し、3年目に差し掛かるときこそ、今後、山之辺の飲食事業が大きな打ち上げ花火になって発展するか、線香花火のように消えるのかが、決まる。

この時期の舵取りを間違えれば、1年半の成功の火種が、ポトンと落ちて消えてしまう。

優紀の結婚相手は、証券会社の社員という、金融業界に務める人物だった。金融業界は、コンプライアンスが非常に厳しい。妻が、水商売を経営しているという人物は、金融業界では敬遠され、出世の道は閉ざされてしまう。

優紀が結婚をすれば、花月の経営から外れなければならない。

花月と、今後の飲食事業を、どのように展開するか?

これが、今の山之辺が抱える大きな課題だった。

山之辺は、その答えを、自分の彼女になった奈美にもとめた。

奈美は、花月開店以来、優紀の右腕となって働いた。器用な奈美は、厨房で優紀の調理の仕事を手伝いながら、日本料理の基本的な調理を覚え、一通りの調理をこなすことができるようになっていた。更に、山之辺が重視したのは、奈美と男女の仲になって、山之辺がデートで連れてゆく料亭や日本料理の店の味や盛り付けを、奈美が、厨房で完全に再現できることだった。

厨房の料理人の素質は、料理の腕以上に、舌と味覚の鋭さにある。

他人の作った料理を食べ、自分の舌でその味を分解し、その素材や調味料を把握して、それを完全に再現できることこそ、プロの料理人になれるかどうかの、決め手になる。美味いものを食べて、ただ美味いと言っているだけの人物や、他人のレシピをみて、料理を作っている人間は、決して、他人が真似できない自分だけの味を作り出すことはできない。

優れた料理を食べただけで、それを再現し、その再現に更に、自分だけの隠し味を加えて、普通の人間が家庭で調理できない料理を作りだせなければ、客は、その店に価値を感じて、通ってこないのである。

人間の五感の中で、味覚だけは、教育や訓練で発展しない感覚であると言われている。味覚は、生まれついての天性の才なのである。従って、その才に恵まれない人材が、いかに努力をしても、優れた料理人になれないのである。

優紀には、その能力があったが、奈美もそれに劣らず、優れた味覚を持っていると山之辺は感じていた。

優紀の結婚によって、花月の優紀と山之辺の共同経営体制を解消して、山之辺の単独オーナー社長体制を構築する。そして、奈美を花月の店長に据え、厨房を仕切らせることを目指そうと、山之辺は考え、それを奈美に、提案していたのである。

山之辺と奈美は、プールに浸りながら、プールサイドに腕をかけ寄り添いながら、山崎のロックを黙って吞んでいた。

亜熱帯のヤンバルの森が、この東洋ヒルズ沖縄リゾートを取り囲んでいる。夜空には、東京では観ることができない満天の星が二人を包み込み、そして、森の生き物たちの鳴き声が、時折、響いてくる。

「本当に、幸せ…。こんなに幸せな気持ちで、あたし、ばちが当たらないかなと怖くなるくらい。」

奈美は、呟いた。

「奈美は、この2年間、休みもとらずに、姉貴を支えてくれた。そして、料理の腕も格段にあがった。

姉貴は結婚して、これから自分の幸せを追えばいい。花月は、これから俺が経営する。奈美は、その俺の店を自分の店に変えて、自分の花月を創るんだ。」

山之辺は、隣で寄り添う奈美にそう言った。

「でもね、雪子ちゃん、どうするの?
雪子ちゃん、あたしの下で、働けないのではないかと思うの。

雪子ちゃん、坂田さんの愛人になって、同棲していた私の部屋から出て行ったし。

それで、私が、山之辺さんと付き合って、花月の店長になったら、雪子ちゃん、面白くないよね?」

山之辺は、奈美を促して、プールからあがり、大きなバスタオルで、奈美の身体を丁寧に拭いた。胸や、股間を山之辺に拭かせるとき、奈美が、小さく快感の嗚咽を漏らした。

バスローブに着がえ、二人は、部屋のソファーに掛けた。

山之辺は、今回の旅の中で、奈美に了承をえなければならないことを、ここで切り出した。

「雪子ちゃんの今後のことで、奈美に、話をしておきたいことがあるんだ。

坂田さんも、バリューフェスの代表取締役に就任される。当然、彼には、家族も子供もいる。雪子ちゃんの存在を、家族に悟らせることはできない。

それで、坂田さんから、俺に雪子ちゃんのことで、相談があったんだ。

雪子ちゃんは、大学時代、ソフィア大学で、イタリア語を専攻していただろ。イタリア旅行に独りで何度も行っている。本人と話をしたんだが、イタリア料理が大好きらしい。」

奈美は、真剣に山之辺の目を見詰めた。

「そう、雪子ちゃんは、昔あたしが一緒に暮らしていた時にも、イタリア料理がとっても上手だったの。」

山之辺は、話を続けた。

「松木さんの紹介で、イタリアのローマにあるイタリアンのリストランテが、料理助手のインターンシップを受け入れてくれるんだ。

給料は出ないが、本場のイタリアンの修行ができる。そこで、イタリアンの修行を、1年間させようと思うんだ。

坂田さんも賛成していて、雪子ちゃんのイタリア滞在中の生活費を、坂田さんが負担すると言っている。

それで、雪子ちゃんが、イタリアでの修行をものにして帰国出来たら、俺が、花月の二号店として、『リストランテ・カゲツ』を開業しようと思う。

どうだろう?

そうすれば、奈美は、日本料理の料亭花月で、雪子ちゃんは、イタリア料理のリストランテで、それぞれ店長兼料理長を務めあげられる。」

奈美は、大きく頷いた。

「それで安心した。雪子ちゃんをどうするか、それがあたし、一番心配だったの。あたしは、花月で、優紀さんのあとをつぎ、新しい従業員を採用して、私なりの教育をして、再出発出来るね。

怖いけど、でも、楽しみ。山之辺さんが、経営者として見守ってくれれば、あたし、やれる気がする。

山之辺さんと一緒なら、今のあたし、なんでもできそうな気がするんだ。」

山之辺は、奈美を抱き寄せた。山之辺の熟慮を重ねてきた、二号店への戦略が、固まった瞬間だった。

はるか下の海の潮騒が、この部屋まで響いてくる。

続く

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