副業飲食編 第1話「修行」

山之辺伸弥は、森隆盛との食事が終わると、トレンチコートの襟を立てて、新宿西口の、S高層ビルを出た。そして、都庁前から、タクシーを拾った。

時間は午後8時を回ったところ。
タクシーは、そのまま、中央高速道路に入り、八王子方面へ向かって走った。

山之辺が向かったのは、銀座の会員制クラブ エルドラドを、2ケ月前に辞めた、山之辺の実姉、山之辺 優紀が料理の修行をしている、小料理 根室。銀座の、優紀の馴染みの客には、まず見つかることがない、都下の小さな小料理屋だ。ここは、この店の味に惚れ込んだ山之辺が、仕事の疲れを癒しに、独りで通う、山之辺の隠れ家の一つの店だった。

山之辺は、姉の優紀と共同出資で、これから出店する小料理屋の、料理の修行を優紀にさせるため、この店を、独りで経営する板前の秋本 豪に頼み込み、優紀に鮮魚の仕入れから、料理までを、短期間で修行させて貰っていたのだ。

秋元 豪は、もとは、築地で鮮魚料理屋を経営していた、秋本 博の一人息子であった。父の博は、非常に厳しい板前で、かつ築地の仲買の間でも、魚の目利きとして一目置かれる存在だった。豪は、その父から、魚の目利きから、そのさばき方、調理まで、仕込まれた跡取り息子だった。

ただ、豪は、父の博以上に、筋の入った板前魂の持ち主だった。

父の店は、博の腕前に惚れ込む常連客で繁盛をしていた。そのため、父以上に、料理に対して、実直に取り組む豪にとっては、一品一品の料理に精魂を込めるには、客が多すぎた。そして、築地という場所柄、それほど、客単価は高くなかった。

父の博が亡くなり、豪が店を継ぐと、豪は、さっさと、繁盛していた店を閉め、都下の、全く目立たない街に、自分の小料理 根室を出店した。しかも、どう見ても、この店は、都下の客層の主力である、家族連れが気軽に入れないような、敷居の高い店構えをしていた。そして、活魚を中心としたメニューには、一切、価格の表示がされていなかった。

豪が客をみて、とる値段を決めていることは、誰の目にも明らかだった。豪が、二度と来てほしくない客、つまり、時々、入ってくる食べ物の味がわからない地元のカップルなどは、二度と、店にはやって来なかった。

「地元の方には、来ていただかなくて、結構なんです。うちは、都心から、通っていただく少数の常連さんだけを、客にして、納得のいく料理を出したいんです。」

豪は、そう、山之辺に語った。

実際、時価での活魚料理と、豪が取り寄せる隠し蔵の日本酒を、請求される料金を全く気にせずに頼めるような、都心の屋敷やタワーマンションに住んで、遠い都下の店まで通ってくる食通だけをファンにして、ゆっくりと、カウンターで楽しませるのが、豪の経営の仕方だった。

山之辺は、このプレミアム感が、これから、優紀と共に出す、銀座四丁目の小料理屋 花月には、ぴったりだと考えていた。

優紀が、エルドラドで抱えていた客層は、一晩で、数十万円を平気で使う。料理をメニューの値段を見て頼むような客は、一人もいなかった。但し、そのような客を常連としてひきつけ続けるためには、最上級の料理と、最上級のサービスでもてなす必要があった。美しい女将の優紀と、ホールの奈美が店にいさえすれば、足を運ぶような、甘い客層ではない。

そのために、優紀の仕入れの目利きや、料理の腕前を、その客に評価されるレベルに高めなければならない。

はじめ、優紀は、プロの板前を、店に入れようと、提案した。
しかし、山之辺は、それに反対した。男性の板前が丁場に入れば、優紀の馴染みの客は、優紀と板前の関係を疑うものだ。それでは、客が興ざめしてしまう。

あくまでも、優紀と、優紀の実弟である山之辺が創る、小料理屋 花月にしたかった。優紀と、優紀が連れてエルドラドを辞めさせる奈美だけで、店の現場の営業をしなければならない。

「花月」という屋号は、優紀という花、奈美という月。日本のみやびの代表ともいえる、その、風雅な美を現していた。だから、その花と月だけで、男の匂いを一切漂わせずに、客を迎え入れなければならない、と、山之辺は考えていた。

そのため、どうしても、優紀に、それにふさわしい料理の最高の食材となる仕入れと、料理を創る腕を、身に着けさせなければならなかった。優紀には、料理のポテンシャルがあると山之辺は感じていたが、それを、プロのバイヤーと料理人のレベルにまで、高めなければならない。

午後9時を回ったころ、山之辺を載せたタクシーは、小料理 根室の前に到着した。根室は、私鉄の各駅停車しか止まらない小さい駅の、寂しい駅前にあった。駅の前にある店の多くは、昼間もシャッターが閉まっているような街だったが、小料理 根室は、ひっそりとではあるが、店の前の灯篭に火をともして営業を続けていた。

山之辺が、店に入る。カウンターには、客は誰もいなかったが、秋本が、優紀に包丁さばきを教えているのが目に入った。山之辺が、磨きあげられた無垢材の樹のカウンターの真ん中に座ると、優紀が、カウンターを出て、山之辺におしぼりと、お通しを運んできた。

「マスター。今日のおすすめの刺身を、盛り合わせで。酒も、お勧めのものがあれば、冷で。」

秋本は、いけすから秋本自身が選んであげた魚の、さばきと盛り合わせを優紀に任せ、自分は、酒の貯蔵専用の冷蔵庫から、一升瓶を出して、それを持って、カウンターの山之辺の隣に来た。

「久保田の洗心の純米大吟醸が入りましたので。」

優紀の包丁さばきは、大胆で、かつ非常に繊細。師匠の秋本も唸らせていた。盛り付け、料理のきめ細やかさ、そして、メニューを構想する能力にも申し分はないと、秋本は太鼓判を押していた。

既に、山之辺は、銀座並木通りから、みゆき通りを左に入った、銀座五丁目のビルの5階の居ぬき物件を、銀座を専門にする不動産会社からの仲介で、申し込みをいれていた。そして、既に、重要事項説明を受け、賃貸借契約を締結する日程を決めていた。

そして、住宅メーカー時代から懇意にしていた店装デザイン会社に依頼し、店の内装プランの最終段階まで打ち合わせを進めていた。そして、この店舗を経営する母体となる株式会社花月は、すでに、公証人の定款認証を終え、資本金の払い込みと登記を行う日程も決めていた。不動産業界にいて、不動産登記にたけた山之辺は、商業登記である会社設立や、その後の税務署・都税事務所などの届け出手続きも、自分で調べ上げ、すでに申請書類もすべて作成を完了して、あとは手続きを進めるだけになっていた。

優紀の修行、不動産賃貸借契約、そして店舗設計。すべては山之辺の立案した工程表通りに順調に進んでいた。店舗の工事の着工と同時に、奈美が銀座のエルドラドを辞め、優紀を手伝って、調理器具などの調達を行う。

会社の入手金の管理や、クレジットカードの入金管理、会計・税務の手続き、労務管理は山之辺が担当することになっている。

山之辺は、席の隣に立った秋本に、今度は、自分の酒を勧めて、それを秋本の盃につぎながら、深く頭をさげた。

「秋本さん。本当に、感謝しています。姉に、料理の仕込みだけでなく、築地の仲買さんや、酒の卸屋さん、現地の生産者さんまで、すべてご紹介をいただいて。築地で、二代続いた、秋本さんのご紹介がなければ、ここまで、スムーズに、一流の食材の仕入れ先を確保できなかったと思います。」

秋本は、相好を崩して、盃をあけた。

「いえいえ。僕も、本当は、築地を閉めた時、銀座に店を出すことも考えましたよ。だけど、築地の客層と銀座の客層は、あそこまで近いのに、全く違います。

お姉さんのように、一流クラブのナンバーワンホステスさんとして、銀座の客を押さえていなさる方でなければ、銀座の客を呼ぶことは無理でしょう。普通では、とても、銀座の家賃を払いきれません。

僕が出せなかった夢を、お姉さんが出していただけるとなれば、僕も教えがいがあります。」

優紀の盛り付けた刺し盛には、大間のまぐろを中心に、生け簀からあげた活きイカが鎮座していた。加えて、高知の鰹の藁焼き、日本海であがった赤貝、そして、クエが並んでいる。

とりわけ、クエの刺身は、日本の冬の魚の中で、山之辺が最も好きな、希少魚だった。

エキサイトクラブで、部下の森を慰労して、フルコースの懐石を食べ、キープボトルのグランフィディックを一本空けてきた山之辺だった。しかし、彼の若さは、ひとりでする二次会の刺し盛りを平らげるに、何のためらいもない。

「マスター。久保田の洗心の純米大吟醸、あと二合、ちょうだい。
これ、美味いや。」

山之辺は、盃を手に、頭の中で、起業の業務工程表を思い浮かべていた。熟慮に熟慮を重ね、自分で更新を続けた工程表は、既に、パソコンを開かなくても、アタマのなかに開くことができる。

外は厳冬の寒さだが、それを山之辺の起業の熱と、冷の純米大吟醸が、ほどよく温めている。

続く

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