ニューヨークウォール街ビジネス始動編 第1話「回顧と迷走」

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回顧 JAL便

成田空港発、ニューヨーク JFケネディ空港行きのJAL便は、鮮やかな夜の滑走路から、ニューヨークへ向けて、14時間の長いフライトに飛び立った。

山之辺伸弥は、はじめてのニューヨーク行きの航空機の中で、エコノミーのアイルシートに一人腰を落ち着け、ゆっくり、上空に向かって上昇する航空機の機内を見回した。

ビジネスマンが、2割ほど、か。

観光に出かける夫婦や、友人同志で腰かける人たちも散見される。韓国のGLU+とのビジネスで行き慣れたソウル便に比べると、海外旅行やビジネスで、国際線の長時間フライトに慣れた乗客が多い様子だ。

株式会社バリューフェス 海外進出コンサルティングセクションを率いる、取締役の阿部洋次、執行役員の水谷隼人、そして、課長の山之辺伸弥の3名は、韓国GLU+との提携事業に継ぐ、次のビジネスの商談のため、ニューヨークに、今回、出張を決めた。

ニューヨークで訪問をする主な目的は、マンハッタンにオフィスを構えるWwWコンサルタンツの、シニアコンサルタント 松木陽介と、コンサルティング契約を結び、松木の提案してきているビジネスのディールを協議することにある。山之辺の、前職の積山ホーム時代からの人脈である、松木が、山之辺を通して、バリューフェスに提案をしてきた、幾つかのビジネスの案件について、これまで、阿部・水谷そして山之辺は、テレビ会議を通して、松木から詳細なプレゼンを受けていた。

そして、今回、松木と直接会って、松木とコンサルティング契約を締結し、そのディティールを詰め、その案件の何に事業を進めるかを判断する。

そのため、3人で、ニューヨークに飛ぶことになった。韓国LGU+の案件とは、ケタが違う大きなビジネスになることが予想できるため、阿部も、水谷や山之辺とともに、直接、ニューヨークに入ることになったのである。

阿部と、水谷は、バリューフェスの出張旅費規定により、ビジネスクラスに席をとった。山之辺は、課長クラスであることから、一人、エコノミーシートの席だった。

航空機が安定すると、機内食が素早く配られ、その回収が終わると、機内のライトは落とされた。ニューヨーク便は、太平洋を横断するのではなく、ロシアの沖から、米領アラスカ上空に入り、アラスカからカナダを東南へ斜めに通過し、アメリカ東海岸に向かうルートを通る。

アメリカ便に慣れている水谷は、出発前に山之辺に、アメリカでのビジネスや出張のコツを指導した。

「世界の標準時間は、ロンドンのグリニッジ天文台をゼロにしていることは知っているだろう? これを、グリニッジ標準時間、GMTと呼ぶ。世界の時間は、今でも、19世紀のビクトリア時代に繁栄を謳歌した、大英帝国の都 ロンドンを基準に動いているんだ。

日本は、ロンドンからみて、極東に位置する。日本の標準時間は、明石を基本にしていて、GMT+9だ。つまり、ロンドンよりも、一日の朝が、9時間早い、という意味だ。

山之辺課長が、行きなれた韓国もGMT+9だから、日本と韓国の間には、時差はない。そして、韓国も日本も、国内は統一的な時間を使っている。

一方、アメリカは、国が東西に広いから、国内に激しい時差がある。

ニューヨークは、東部標準時間 Eastern Timeを使用している。そして、このEastern Timeは、サマータイムがある。今は、4月だから、サマータイム時間を使っている時期だ。そのため、今、ニューヨークはGMT-4だ。サマータイムのニューヨークは、ロンドンより、4時間、朝が遅いわけだ。従って、今は、ニューヨークは日本よりも、合計13時間、朝が遅れている。

ちなみに、3月から10月のサマータイム以外のEastern Timeは、GMT-5だ。だから、冬は、東京とニューヨークは、14時間の時差がある。

13時間時差というのは、日本の深夜0時が、向こうでは、前の日の午前11時ということだ。ニューヨークで昼飯を食べるのが、日本の深夜1時だと思えばいい。だから、ニューヨークに慣れていないと、最初のうちは、午後の時間に、睡魔が襲ってくる。逆に、夜は眠れない。

この時差のダメージで身体が参ってしまうんだ。今回の航空機は、成田発21時過ぎの便で、ニューヨークまで14時間かかる。だから、ニューヨーク到着が、日本時間の午前11時で、ニューヨークの夜の21時だ。

JFケネディ空港で、入国手続きを行い、タクシーのイエローキャブで、マンハッタンに向かうが、ホテルにチェックインするのは、おそらく、深夜0時くらいになるだろう。ホテルに到着したら、しっかり寝て、それで、翌朝には、ニューヨークの時間に身体をあわせることが重要だ。

飛行機の中は、ずっと外は夜だ。夜が明けない。外が暗いからといって、寝すぎると、ニューヨークの初日の夜に寝られなくなって、身体がついていけなくなるんだ。だから、飛行機の中では、最終便を使って、夜を飛び、向こうに夜に到着するほうが楽だ。

仕事や読書をして、あまり機内では寝ないこと。そのほうが、うまく身体が慣れる。これが、アメリカ東海岸に出張するときの、コツだ。」

山之辺は、この水谷のアドバイスに従って、暗くなった機内で、シートに身を沈めながら、寝ないように注意していた。そして、機内放送の音楽をイヤホンで聞きながら、過ぎ去った、過去に想いを馳せていた。

ニューヨークウォール街ビジネス始動編

中央大学法学部を卒業し、住宅メーカーの最大手である、積山ホームに就職をした山之辺は、入社後、同期の新入社員とともに、新人研修を3か月間、受けた。

松木陽介と、山之辺が最初に出会ったのは、この積山ホームの新人研修の時だった。

積山ホームは、三洋銀行の系列下にあった。新入社員の研修は、三洋銀行系のシンクタンク 三洋総合研究所が受けもっていた。松木は、その三洋総合研究所の経営コンサルタント職にあり、積山ホームを担当していたのである。

松木は、山之辺と同じ中央大学法学部を卒業していた。そして、中央学法学部教授で、後に、学長まで昇り、中明大学の経営に辣腕を振るった、永峯教授の、企業法ゼミを出身していた。

会社法の改正の法制審議会にも加わり、企業法務に大きな影響力を持っていた永峯教授のゼミは、中明大学の名門ゼミであった。その永峯ゼミを出身し、永峯教授の三洋銀行への推薦を受けて入行した。

圧倒的に、東大閥、慶應閥の学閥が暗然と支配すると言われる三洋銀行に、松木は、中央大学出身者のキャリアとして、異例の入行を果たした人物だった。

そんな松木は、三洋銀行の新入社員の中で、際立った個性の持ち主だった。

抜群に回転の速い、頭脳。
剃刀のような、トークの切れ味。
そして、誰に対しても物怖じをしない、自信に満ちた発信力。

そんな松木の圧倒的な存在感を評価した三洋銀行は、松木を、入社初年度で、三洋総合研究所に配属した。

バブル時代、大手銀行の、最もエリートの組織は、経営企画部であると言われていた。経営企画部は、金融庁を相手に情報収集と折衝を行う、護送船団方式時代に、「MOF担」といわれた組織の、後継組織だった。

金融庁は、絶大な管理監督権限を金融機関に対して発揮している。そのため、銀行の経営企画室は、この金融庁に立ち向かうため、競合の垣根を超えて、情報交換と連携を行っていた。そのため、経営企画部の構成員は、金融業界全体に人脈をえることができ、しかも、金融庁との折衝のパイプを持つことができる。そのため、歴代の銀行の頭取の多くは、経営企画室の出身者によって占められていた。

一方、金融系シンクタンクである総合研究所は、この経営企画室への登竜門となっていた。松木が、入行と同時に三洋総合研究所の出向となったのは、極めて早い段階で、松木が、三洋銀行の主流のコースに乗ったことを意味していた。

このように、シンクタンクは、銀行の中の、最高のエリート機関である。従って、三洋総合研究所に三洋銀行から出向するのは、普通、銀行の支店で支店長代理まで務めた、30代の男性行員の中の、選りすぐりの人材と相場が決まっていた。これを、松木は、新入社員で出向と決まったわけであるから、三洋銀行が抱いた松木への期待のほどが、伺える人事である。

積山ホームの新入社員の間でも、講師を務める、自分たちより1歳しか年が違わない松木について、
「猛烈なエリートコースを歩んでいる三洋銀行マンなんだって」
と噂が流れた。

松木は、三洋総合研究所に配属された直後から、積山ホームの担当に着任した。松木は、三洋総合研究所内で、積山ホームに対する重要なミッションを負っていた。

積山ホームは、三洋グループ随一の住宅メーカーであり、専用住宅物件だけでなく、資産家が運用する営業用物件の建築提案や、ビル物件の営業提案を得意としていた。

三洋銀行や三洋信託銀行では、総純資産10億円を超える個人資産家を、富裕層と定義していた。これらの資産家たちに、資産家ビジネスの対象にする銀行や証券、生保などの金融系企業は、営業担当者をつけて囲い込み、その資産の運用委託を獲得するためのコンサルティングにしのぎを削っていた。三洋グループでは、そのために、積山ホームを中核とした不動産コンサルティングで、他の企業と差別化を図ろうとしていた。

積山ホームの建築提案力と、不動産コンサルティング力、そして営業力は、三洋グループの資産家の囲い込みにとって、非常に重要な戦力と、三洋銀行は位置付けていたわけである。

「積山ホームの約10,000人の営業マンのうち、トップセールス100人を絞り込み、これに積山ホームの建築営業提案力を集中させ、不動産コンサルティング力を徹底的に鍛え上げて、最強の営業集団に育成すること。そして、この最強の営業集団に、三洋グループの最優良顧客を集中させ、他社との差別化をはかり、三洋グループの、資産家囲い込みの最前線の戦力とせよ。」

これが、三洋総合研究所が、若きコンサルタントであった、松木に与えたミッションだった。かくして、松木は、入社1年目で大抜擢をされ、この三洋グループの重要なミッションを引き受けて、積山ホームの担当コンサルタントとなったのである。

そしてその翌年、積山ホームに入社してきた山之辺の前に、銀行系シンクタンクから派遣された講師として、松木が新入社員研修で立った。

これが、山之辺と松木の出会いだった。

山之辺23歳、そして松木は24歳。その燃えるような闘志を秘めた2人が出会ったのである。

年齢差は、1歳であったが、松木は、積山ホームの大株主であり、最大の債権者でもある三洋銀行からの顧問として、積山ホームの取締役会にもオブザーバーとして出席できる立場にあった。

松木は、新入社員の営業研修の中で、その存在感と営業力が抜群だった山之辺を、すぐに見出した。積山ホームには、猛者の営業マンが多数おり、すでに、三洋銀行が教育対象とする、トップ100人を選抜して教育をはじめていた。

松木は、その中に、山之辺を加えたのである。

松木が、積山ホームに持ち込んだ方法は、彼が、システム営業プロジェクトと銘々し、その後、住宅業界の教育の模範になる手法だった。松木は、トップ100人の営業マンの営業行動から提案、顧客サービスまでを徹底的にリサーチし、その中から、最も効率的に、建築の営業提案を進めるエッセンスを抽出し、それを、このトップ100人に、その秘技を標準化させる方法をとった。トップ営業マンの手法を、トップ全員に標準化させ、最強の戦力を生み出す建設営業マン集団の育成を目指したのである。

そして、松木は、この標準化の対象に、山之辺も加えた。

山之辺にとって、幸運だったのは、積山ホームの猛者の営業マンたちが、職人芸のように培ってきた提案法や、建築・金融・法務・税務・事業計画など、広範に及ぶナレッジを、松木が三洋銀行の力を背景にあぶり出し、それを、松木の能力で標準化をしたところで、積山ホームに入社し、松木に見いだされたことだった。

松木の指導を、山之辺は、砂地が水を吸収するように、吸い込んでいった。そして、山之辺の持つ、若いバイタリティを、積山ホームの仕事に、山之辺がぶつけたのである。

1年もたたないうちに、山之辺は営業の猛者である積山ホームトップ100人に食い込み、更に、これを追い抜いて、山之辺は、積山ホームのナンバーワン営業マンの位置を獲得した。

山之辺を抜擢し、新入社員の山之辺をトップセールスに創り上げたことで、積山ホームの幹部は、松木の方法の優位性を認めた。

積山ホームの取締役会がこれを積山ホームの営業教育の柱として受け入れた。

その後、松木は、積山ホームの顧問コンサルタントとしての実績をベースに、三洋総合研究所で手腕を認められ、様々なコンサル案件を任されて、仕事を広げていくことができるようになったのである。

松木の仕事が、山之辺を積山ホームで躍進させ、その山之辺の躍進が、松木の三洋グループでの躍進を創り上げたのだった。

そして、その翌年。

松木は、三洋銀行グループ5万人の社員の中で、毎年3名しか選抜されない、三洋銀行の社費留学制度の対象者に抜擢された。そして、松木は、アメリカ西海岸の名門ビジネススクールに留学するため、山之辺の前から、飛び立っていった。

その2年半後。松木は、MBAを取得すると、三洋銀行を退行し、イギリスのシティに本拠地を置き、世界150か国に展開する巨大会計事務所の1つ、WwWコンサルタンツのニューヨークオフィスと契約をした。

そして、山之辺もまた、積山ホームを退社し、バリューフェスに移った。

山之辺は、バリューフェスに入社すると、その挨拶のメールを、アメリカにいる松木に送った。これがきっかけになり、松木は、山之辺のいるバリューフェスに対し、大きなディールの案件を提案してきたのである。

山之辺は、多くの乗客が眠った後の、暗い機内の中、これまでの松木と、自分の出会いと、経緯を想い出していた。今の山之辺は、松木なくしては、存在していないほど、山之辺にとって、松木の存在は大きいものだった。

その松木とのビジネスを進めるため、今、松木がいるニューヨークに向かっているのだ。

山之辺の脳裏に、懐かしい松木の笑顔が、今、いっぱいに広がっていた。

迷走の始まり

迷走の始まり

山之辺伸弥がエコノミー席に搭乗した、成田空港発、ニューヨーク JFケネディ空港行きのJAL便。その同じ便のビジネスクラス席に並んで、阿部洋次と水谷隼人は座っていた。

阿部は株式会社バリューフェスの取締役であり、水谷は執行役員である。バリューフェスの出張規定では、二人とも、海外出張の航空機移動ではビジネスクラスを利用できることになっている。ただ、水谷は、これまで、海外進出支援セクションの海外出張では、経費の節減目的と、移動時間中に部下とのコミュニケーションをとるため、エコノミー席に山之辺とともに搭乗していた。それが、今回は、阿部の指示で、山之辺と離れ、ビジネスクラス席に阿部と並んで座ったのだった。

「ニューヨークまで14時間かかるから、我々、年配の者は、身体がきついからね。」

阿部は、山之辺にそのように言い訳をして、会社の出張規定の通りに、自分と水谷の席をビジネスクラスにとるように、秘書役の溝口香里に指示して手配をさせた。

航空機が安定すると、ビジネスクラスとエコノミーの間にはカーテンがひかれ、ビジネスクラスには、まず、ワインやブランデーなどの酒が、チーズの盛り合わせとともに、キャビンアテンダントによってサービスされてゆく。

阿部は、ビールを、水谷はスコッチの水割りを、それぞれ頼んで、二人は、眼下に離れゆく日本の夜景に、まずは乾杯をした。水谷は、スコッチが回る前に、自分の時計を、GMT-4の、ニューヨーク時間に合わせた。

窓側の席に座る阿部が、時計をあわせおえた水谷に、ニューヨークの松木陽介から提案されてきた資料の打ち合わせをしたいと促した。この資料については、日本で、山之辺を含め、何度も打ち合わせを重ねてきたが、それをあえて、機中で打合せをしたいと阿部が言い出したのは、山之辺に聞かせたくない内容の協議があるのだろう、と、水谷は、推測した。

カマンベールチーズをつまみながら、阿部は、もう一度、ぱらぱらと、分厚い松木の提案をめくった。

WwWコンサルタンツの松木から、バリューフェスの海外事業提案として、提示されているビジネスプランは、ProjectAと、ProjectBの、2案があった。

松木は、山之辺から、バリューフェスの課題をヒアリングし、バリューフェスのIR情報をつぶさに調査した。そのうえで、バリューフェスの規模から想定すると、相当に大きな事業プロジェクトのスキームを、あえて、松木は、山之辺に向けて提案してきたのだった。

バリューフェスは、現在、連結決算の売上が400億円強の企業である。これに対して、松木は、ProjectAで、採算計画上、売上高が50億円規模の事業を提案してきた。実現すれば、バリューフェスの売上高を、12%以上押し上げるビジネスモデルである。日本のメガバンクを出身する松木に、それが、バフューフェスにどれだけのインパクトを与えるか、計算できないはずはなかった。

海外進出支援セクションが、最初に手掛けた韓国GLU+との提携事業では、売上高がようやく2億円に乗ったような状態だった。そこから考えれば、松木の描いたProjectAは巨大なビジネスモデルであった。

提案を受けた山之辺すら、最初は、ドルベースで記載された、この採算計画の為替の計算を、自分が間違えたのかと思ったほどであった。

「山之辺君は、積山ホーム時代、営業年商50億円を売ってた男じゃないか?
その君に出すには、このくらいのビジネス規模のスキームでなければ失礼かと思ってね。」

松木は、こともなげに、山之辺にそういった。

Project A スキームの概要

アゼルバイジャン エーロン社 カスピ海油田管理業務

  • エーロン社は、アメリカニューヨークに本社を置く世界7大石油資本の一社で、アグレシブな油田開発を行うことで有名な企業。
  • 松木は、米国公認会計士(CPA)として同社の監査委員の独立取締役を務める。
  • エーロン社は、3か月前、世界の油田掘削の目玉ともいえるカスピ海のアゼルバイジャン領海内で、アゼルバイジャンが国運をかけて行った新規油田掘削プロジェクトで、新規の油田の掘削に成功した。
  • この新油田は、日産15万バーレルの産出を可能とする、オイル業界で言う、「ジャイアンツ」油田であることが判明している。
  • EU欧州委員会は、再生可能エネルギー戦略を重視しつつも、過渡的なエネルギーの安定的な確保のため、ロシアの天然ガスを補う資源として、アゼルバイジャン及びエーロン社との間で、この油田の産出オイルを、5年間独占的に購入する契約を締結した。
  • この取引の原油売買金額は、シカゴ商品取引所の現物取引市場価格によって決済される。
  • この油田の操業には、莫大な業務が必要となる。エーロン社は、近い将来の、再生可能エネルギーへの移行を見据え、その業務の多くを、自社の人的な資源ではなく、外注によって賄うことを決定。
  • 松木は、エーロン社の取締役会に対し、油田管理業務の一部を、日本の株式会社バリューフェスに委託をする推薦を行うことができる。
  • この油田が、5年間、EUに販売するオイルの取引額は、1バーレル70ドルの価格を基礎として計算すると、日商1,050万ドル(対ドル為替相場を110円とした場合、日本円で1,155,000,000円。つまり、一日に10億円程度の売上高を計上する取引である。オイル相場の変動や為替の変動を想定しても、年商2500億円を少なくとも計上する油田となることは、確実と言える。
  • エーロン社が、バリューフェスに委託する業務は、この年商の2%にあたるコミッションで、委託する。すなわち、低く見積もっても、年間50億円以上のコミッションが、バリューフェスに入金されると予想する。契約期間は、EU委員会との契約期間内、すなわち、5年間に限定されている。
  • バリューフェスは、日本より、100名の業務スタッフを、アゼルバイジャンに派遣し、この業務を行う。その人件費や、旅費・管理などの固定経費の合計は、年間約10億円。
  • このバリューフェスのメンバーの教育や、管理は、松木が所属する、WwWコンサルタンツが遂行する。バリューフェスは、エーロン社から入るコミッションの10%を、WwWコンサルタンツに指導料として支払う契約をする。

これが、ProjectAの概要だった。松木がバリューフェスに提案した資料には、上記のプランとビジネススキームが、詳細なアゼルバイジャンの油田の資料とともに、計80ページを超える企画書として、日本語で纏められていた。

つまり、松木は、バリューフェスに対して、エンロン社の独立取締役の立場で、自分の属するWwWコンサルタンツに、年間5億円以上の指導料を支払う条件で、最低でも5年間にわたる年間50億円の売上と、年間35億円の営業利益があがるスキームを提案していたわけである。

バリューフェスのグループ連結売上は、400億円を超えていたが、税引き後の最終利益は、年間60億円強であった。一部上場企業としての売上高では、バリューフェスは小型な企業であるが、売上高純利益率は15%と、抜群な高利益体質の企業であった。これに、もし、ProjectAが、松木の提案通りの利益をバリューフェスに齎せば、バリューフェスの税引後の最終利益は、一気に1.5倍に膨らむことになる。バリューフェスの株主価値は、飛び上がってしまうほど、この取引には、インパクトがある。

但し、松木は、同時に、ProjectB案を、バリューフェスに投げてきていた。

Project B スキームの概要

欧州における、水素ビジネス投資 エーロンエアー社の買収提案

  • Project Aは、大きな利益率をバリューフェスにもたらすも、これは、5年以上は継続しない。
    EUが、ここから、脱化石燃料化への道を歩むことは、既に既定路線であり、Project Aの終了は、同時に、5年後、バリューフェスの利益を大きく減退させるリスクを孕んでいる。
  • そこで、バリューフェスは、Project Aから得た利益を、5年後に、Project Aに代わる利益の源泉となるであろうビジネスに投資をすべきである。
  • エーロン社は、欧州の子会社として、欧州における水素ビジネスを進めるため、エーロンエアー社の株式を100%所有する。しかし、エーロン社は、既に、脱化石燃料ビジネスで、自立型電気自動車の投資を大きく進めており、水素ビジネスでは、アメリカにも、有力な企業に投資を進めている。そのため、選択と集中の経営戦略から、エーロンエアーの株式をM&Aで、売却することになる。
  • そこで、バリューフェスは、エーロン社からのビジネスの発表で上昇する株価を基礎に、5年分の利益に相当する175億円を証券市場から調達し、この資金で、エーロン社から、エーロンエアーを買収すべきである。
  • エーロンエアーのバリュエーションにおける企業価値は、DCF法(ディスカウントキャッシュフロー法)で、100億円と算出できる。ここに、エーロン社の暖簾の利益を50億円乗せて、150億円で提示すれば、エーロン社は、エーロンエアーを友好的に、バリューフェスに売るだろう。
  • 松木は、エーロン社の取締役であるため、バリューフェス側のM&Aのアドバイザー業務はできないが、WwWコンサルタンツから、別のアドバイザーをバリューフェスに送り込み、M&Aを成功させる支援を行う準備がある。WwWのM&A成功報酬は、株式売買金額の2%にあたる、3億円となり、これをWwWに支払う事。
  • バリューフェスがエーロンエアーを買収した後、松木は、エーロンエアーの顧問となり、欧州における人脈を駆使して、エーロンエアーのビジネスを成功に導き、5年以内に、エーロンエアーで継続的な利益を、バリューフェスグループにもたらすことを目標とする。

ProjectBでは、その資料には、エーロンエアーの詳細な企業情報や、企業価値に関する数学的な計算資料が添付され、その企画書は、ProjectAを遥かに超える、200ページを超えるものになっていた。

阿部は、この二つの提案書を、座席シートのテ-ブルに載せて、水谷に言った。

「まだ、山之辺くんには、言っていないんだが。水谷さんには、了解しておいてほしいことがある。

僕は、ProjectA案だけを採用し、ProjectB案は見送ろうと思う。それを松木さんに、今回、ニューヨークで直接伝え、松木さんには、A案だけの支援をいただくお願いをしようと思っているんだ。」

水谷は、アタマをシートの背につけて、上を向いた。そして、上向きの目線を戻さずに、独り言のように、語った。

「阿部取締役。それは、あまりに短絡的な選択だと思います。
上場企業の、我々、役員が行ってよい選択ではないのではないでしょうか。

A案は、確かに、5年間の間、バリューフェスに対して、相当大きな利益を齎し、株主価値をあげてくれるでしょう。しかし、欧州委員会は、はっきりと、A案のベースになっているアゼルバイジャンプロジェクトは、5年間を期限とする契約と言っていますし、松木さんも、我々に事前にそう言ってきています。

エーロン社からすれば、本来、A案の業務は、本来自社内で、人材を手当てして行えば、充分できる業務です。それを、あえて、我々に年間35億円もの利益をとらせて外注するのは、5年後の契約切れが想定されている業務のために、100人の正社員を抱えたくないためです。アメリカは、雇用に対しての企業の社会的責任が非常に重く、有期のプロジェクトで社員を抱えると、その後の退職金や継続雇用に対する責任が発生するため、これを回避する目的で、エーロン社は、これを日本企業に外注するのです。

我々としても、売上高50億円、営業利益35億円というプロジェクトを、5年間の期限で失うことを意味します。これをそのまま飲めば、5年後に、バリューフェスの業績は、この分の売上と利益をまるまる失うことになります。

それは、ゴーイングコンサーン(継続企業)としての上場企業が選ぶ道ではありません。

それで、松木さんは、あえて、B案に、その利益を投資し、5年後には、化石エネルギービジネスから、水素という脱炭素エネルギービジネスにバリューフェスが転換することを、セットで、提案をしてきているのです。

従って、我々は、利益を生むA案と、その利益を投資して未来価値を買うB案を、ともに進めるべきでしょう。」

阿部は、うんざりした顔を露骨に見せて、ビールを器に注いだ。

「水谷さん。原油の油田ってものはね。別に、5年で、出なくなるようなものじゃないよ。

欧州が買わなくたって、別に、それを売る先はいくらでもあるさ。ウチとすれば、SDGsなんてものは、そもそも門外漢だからね。

水素エネルギーのヨーロッパの会社を買うなんて、そんなことは、とてもじゃないけれど、オペレーションできないじゃないか。100億を超える投資をして、それで、M&Aに失敗したら、それこそ、上場企業として、やってはいけないことさ。」

水谷は、目をつぶって、しばらく考えた。2人の会話は、そこでしばらく途絶えた。

航空機は、日本列島のはるか北を飛んでいた。航路を示す地図は、これから、極限地域にあるアラスカに伸びている。

二人の間に、重苦しい沈黙が続いた。水谷は、重い口調で付け足した。

「阿部取締役。取締役は、A案の責任者として、韓国の大井川茂君を移動させて着任させるおつもりですか?」

阿部は、応えなかった。阿部の応えがないことから、水谷は、自分の読んだ、阿部の考え方の筋が違っていないことを確信した。

バリューフェスの創業者である大井川秀樹の一人息子である大井川茂は、阿部が、次期社長候補として、日に日に実績と株主の評価を積み上げている、坂田将副社長に対する牽制の駒として、大井川秀樹から阿部に託された部下だった。

大井川秀樹が、社長の座を坂田に移譲しないうちに、阿部は、大井川茂の実績を積ませ、坂田への移譲を阻止したいと考えている、重要な駒である。

しかし、そうであるからと言って、このプロジェクトを大井川茂の器にあわせて受注をする決めるとすれは、それは明らかに、おかしい話だった。水谷が部下になった、大井川茂をどうみても、いまだ、上場企業であるバリューフェスの役員が務まるような器ではなかった。事実、山之辺が韓国の財閥系企業GLU+との間に構築したビジネスモデルの実務部隊として、阿部が大井川茂を韓国の責任者としてみたものの、大井川茂は、韓国で、山之辺のプランにただ乗りしただけで、まったく実績もあげていなかった。

韓国に大井川とともに赴任した茂の部下の社員たちの間では、むしろ、茂の評判は芳しくなかった。

韓国で、だれも茂を管理する立場の者がいないのをいいことに、茂は、会社の出勤時間も守らず、かつ、午後も、早い時間から事務所から消えてしまうらしい。どうやら、ソウルでは、気ままに仕事をしているようだった。韓国語や英語の語学力も、一向に向上していない。会社では、鬼のように仕事に厳しい大井川秀樹は、若い頃から、家庭と子供の教育を顧みていなかった。家庭では、茂に贅沢な暮らしをさせ、スポイルしてしまっていた。親の七光りに甘えた育ち方を、茂はしてしまったようである。

日本では、山之辺や、その下に配置した森隆盛が、休日もとらない働き方をして、次の新たなビジネスモデルの構築にいそしんでいたにも関わらず、大井川茂は、山之辺が創ったビジネスモデルに、うまうまと乗って、海外での気楽な仕事をしながら、自由を謳歌しているようだった。

勿論、情報に鋭い山之辺課長が、自分の部署の中にある、このような不公正な状態に気づいていないはずはなかった。

山之辺の仕事の質は、まったく変わっていなかったが、阿部と、山之辺の人間関係には、山之辺をヘッドハンティングしたころの、親密さは、大井川茂に肩入れをしはじめた頃から、既に、失われつつあると、水谷は、最近感じていた。

水谷は、そんな阿部と山之辺の、微妙な人間関係の齟齬をきたし始めたことを、内心で気にかけていた。

阿部は、そのような大井川茂を、今度は、韓国ビジネスとは比較にならないほどの規模の、ProjectAの責任者につけ、その利益の大きさを誇示して、茂の実績を作り出す気に違いない。水谷は、そう、読んでいた。

だからこそ、阿部にとって重要なのは、バリューフェスの未来ではなく、目先の利益の大きさなのではないだろうか。年間35億円の利益を叩き出すA案は、坂田の実績に対して、茂の実績を作り出す「張り子の虎」としては、非常に効果的であると、阿部は考えているのだろう。

しかし、それでうまくいくとは、水谷には思えなかった。
このプロジェクトは、山之辺と、山之辺との信頼関係をもとにした松木が、すべて筋を書いている。

水谷は、まだ松木に、直接、あったことはなかった。しかし、日本の大手都市銀行の苛烈な競争に勝ち抜いて、アメリカ留学をはたし、その後に、世界最大規模で展開するWwWに入り、ほんの数年で、頭角をあらわすような漢が松木である。その競争に勝ち抜く能力は、並大抵ではないはずだ。

松木は、底の知れない実力を持っている漢に違いない。そんな漢に、バリューフェスが大井川茂などのような人物を責任者して、相手になるはずはない。

そして、それ以上に、このビジネスをバリューフェスに齎した山之辺の実績を正当に評価しなければ、阿部に対する山之辺の信頼は、今回こそ、破綻するのではないだろうか。

今の海外支援事業セクションの実績は、すべて山之辺が創りあげたものである。その山之辺を評価せず、美味しい果実をすべて、大井川茂に持っていけば、茂を溺愛する大井川秀樹は満足かもしれないが、海外支援事業セクションは、終わってしまうのではないか?

大きな利益があがるビジネスに向かって、スピードをあげる部署が、いつのまにか、迷路に迷い込み、迷走を始めたことに、水谷は、今、航空機が飛行するアラスカの大地に流れる、荒涼な氷河を観るような、寒気を覚えていた。

マンハッタンの摩天楼

マンハッタンの摩天楼

山之辺伸弥課長、そして阿部洋次取締役と水谷隼人執行役員を乗せたJAL便は、日本の成田空港を発ってから14時間後に、ニューヨークのJFケネディ空港に着陸した。

東京を発ったのが夜だった。そして、14時間飛行機は飛び続けたはずだが、到着したニューヨークは、東京を発った日と同じ日の、発ったのとほぼ同じ時間の夜である。日本とアメリカ東海岸との時差の齎す不思議な感覚に、山之辺は、まだ慣れていない。不思議そうに腕時計に見入っている。

株式会社バリューフェスに入る前、アメリカ資本の巨大IT企業 IGMニューヨークで仕事をしていた水谷にとって、ニューヨークは久々に帰って来た、第二の故郷のようなところだった。

一方、山之辺は、はじめて立ったアメリカの地に興奮を覚えていた。日本や韓国の空港とは比較にならないほど、そこにいる空港関係者も、旅行者も、多様な人種の坩堝だった。まさに、世界のあらゆる人種が、世界一の経済大国アメリカの中心都市 ニューヨークに向けて集まってきているのが、よくわかる。

そして、これから向かうマンハッタンは、そのニューヨークの、ビジネスの心臓部だ。入国手続きが終わると、水谷は、阿部と山之辺を先導する形で、空港のタクシー乗り場に連れてゆき、イエローキャブを拾って、ホテルに向かうことを指示した。

“Between 49 street and 50 park avenue301.The Waldorf-Astoria hotel,please.”

こう運転手に今日の宿泊ホテルをオーダーし、水谷は、隣に座った山之辺に説明をはじめた。

「ニューヨークのドライバーは、各国から来ている出稼ぎが多いから、日本のタクシードライバーのようにニューヨークを知らない。だから、必ずタクシーでは、目的場所とともに、ストリートとアベニューの番号を指定したほうがいい。

マンハッタン島の中は、碁盤の目のように、ストリートとアベニューが交差している。そして、唯一、そのマンハッタンを斜めに走っているのが、ブロードウエイだ。そして、ブロードウエイと、7番街、42丁目が交差するところが、タイムズスクエアー。ブロードウエイが、斜めに交差して、角が三角形を構成しているから、スクエアーと呼ぶわけだ。

ブロードウエイは、ミュージカルなどのエンターテイメントの劇場がひしめいている。世界の芸能の発信源だ。

今回、訪問する松木さんのWwWコンファルタンツは、このタイムズスクエアーよりも南側のウオールストリートにある。このウオールストリートこそ、資本主義世界の金融の中心部だ。WwWコンサルタンツの入る高層ビルは、その中でも、最も名門の超高層ビルだ。その上層階に、WwWコンサルタンツニューヨークは入っている。

世界一の家賃のビルだ。流石は、世界の富裕層の「守護神」といわれる、WwWだよね。おそらく、松木さんは、WwWのシニアコンサルタントだから、そこに、個室を持っていて、とびっきりの頭脳を持つ美人秘書を数名抱えているだろう。

きっと彼のプライベートオフィスからは、世界一のマンハッタンの百万ドルの夜景が見えるさ。松木さんのような立場になった漢は、マンハッタンを自分のものだと思えるだろうね。羨ましい限りだ。」

水谷の説明に、山之辺は、溜息をついた。

「凄いですね。松木さん、本当に、出世したなあ。」

山之辺と仕事をしていた頃の松木は、日本の銀行のオフィスの中の狭い机に座っていた。そして、猛烈な仕事をこなしていたが、同時に、猛烈に勉強もしていた。

その松木が、今はウオール街にいて、しかも、世界一家賃の高いビルの一室を、富裕層の守護神と言われる外資系コンサルタント会社から与えられている・・・。

松木が、ビジネススクールに留学をするため、日本を飛び立っていったのは、数年前であったが、その数年間に猛烈なスピードで上昇して、松木は、山之辺の位置から遥かに上のステージに昇っていったのだ。

一体、今の彼は、年収いくらくらいを稼いでいるのだろうか?

松木は、ビジネススクールを卒業して、日本の銀行に帰ることを辞めたとき、就職祝いで国際電話をした山之辺に、日本の銀行に帰らない決断をした動機を、こう語っていたのを想い出した。

「年収が、完全に日本の銀行とアメリカの外資系コンサルファームでは、ゼロがひとつ違う桁を稼ぎ出せる。そんなチャンスをすてて、日本に逃げ帰るほど、俺は、落ちぶれていないさ。」

彼の出たビジネススクールのあるボストンでは、毎年、9月の卒業シーズンに向け、半年前から、アメリカ中のヘッドハンターが暗躍をはじめる。世界最高峰の学府の優秀層をゲットして、それを世界一流の企業に売るために、人材の「仕入れ」をするためだ。

ハーバードビジネススクールでは、入学後、成績が振るわない学生は、次々に下位の大学に移らされる。世界中からオリンピック選手のように選ばれてきた天才・秀才が集まる入学者のうち、ハーバードビジネススクールからMBAの学位を授与される学生は、半分にも満たない。

極めて厳しい生き残りの、戦争のような学生生活を送る。そして卒業時に、全員が成績で順位づけをされてしまうという。つまり、その人物が、ハーバードビジネススクールを何番の成績で卒業したかを、すべて、契約する企業に知れてしまうのだ。

ボストンに押し寄せるヘッドハンターたちは、この情報を入手し、上位半分の成績で卒業した学生しか、「ヘッドハンティングの商品」にしない。その上位の学生をゲットするため、夏のボストンでは、毎晩、ヘッドハンターたちが、卒業を前にしたハーバードのMBA学位取得予定者を、バーで飲みに誘い、有利な契約先を斡旋する合戦を展開するのだ。

優秀な学生は、マキンゼーやボストンコンサルティングなどの世界最高峰のコンサル会社を目指す。その初任給は、日本円で1億円を超える者も多い。そして、松木は、そのヘッドハンター達が自分に呈示する条件をみて、日本に帰ることをすて、ニューヨークに残る決断をしたのだろう。日本の銀行出身だった松木に、最もよい条件を出したのが、金融系コンサルティング会社のWwWだったに違いない。

しかし、松木は同時にこんなことも言っていた。

「MBAという学位はね。契約する企業が決まり、初年度の年俸を決めた瞬間、意味がなくなるんだ。WwWでは、入社初日に、上司のシニアコンサルタントからこう言われる。

“君の華麗なる学歴は、明日から、一切意味を失う。明日から、君は、ビジネススクールで鍛え上げた、君自身の頭脳を駆使して、いくら、会社に利益を齎したかだけを評価される。その利益で、君の次の年俸も決まる。

毎月月初は、偉大なる白紙だと思え。

ここでは過去は意味がない。意味あるのは、次の月、いくら、利益を出すかだけだ。この街では、負けたのは可哀そうだなどと言ってくれるお人よしは、誰もいない。勝ち残るか、大敗してウオール街から退場するか。そのどちらかの選択肢だけ、だ。“

その激烈な競争の中で、松木は勝ち抜き、短期間で、WwWのシニアコンサルタントまで昇った。山之辺は、そんなことを考えながら、夜のニューヨークを走るイエローキャブから、窓の外をぼんやり眺めていた。

「おお、見えてきたな。」

阿部がイエローキャブのフロントを見ながら、感嘆の声をあげた。イエローキャブは、マンハッタンに繋がるブルックリンブリッジの上に到達していた。

山之辺もまた、感嘆の声をあげた。橋の先に、マンハッタンの夜景が現れたのだ。

マンハッタンに繋がるブルックリンブリッジ

「うわ。映画の世界ですね。」

煌めくマンハッタンの夜景は、まさに、資本主義と自由主義の力を、山之辺たちに見せつけるように、強烈なエネルギーを放って、輝いていた。山之辺が、自分の目で、生で見た、初めてのマンハッタンだった。

イエローキャブは、そのマンハッタンに吸い込まれるように走っていく。

続く

国際ビジネス小説「頂きにのびる山路」 次回の話はこちら

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