1.宮益坂 人材紹介会社
渋谷・宮益坂の緩い傾斜を登っただけでも、9月の東京の熱気で、スーツの内側に汗がべっとりと纏わりつく。
ワイシャツの襟元に汗が溢れる。
真夏の午後の時間。こうして都内の路をしばらく歩いていたら、ネクタイの結び目が、汗を吸って、コンクリートのように凝固するだろう。今夜は、これを解くのに一苦労するに違いない。
黒の上下のスーツに、ブルーの麻のネクタイをきつく締めた姿の20代中盤の男。
宮益坂の午後2時。
まだ茹だるような熱気の中、この漢、山之辺伸弥は、宮益坂を青山方面に歩いていった。
緩い上り坂。道ですれ違うビジネスマンで、スーツの上着にネクタイを締めている奴は誰もいない。
渋谷郵便局を過ぎる。ようやく宮益坂を登りきる。
油蝉の鳴き声が耳に染み込んでくる。秋の訪れの気配は、まだまったく感じられない。
宮益坂上。
先に見える青山学院大学の正門が熱気でかすむ。
青山通りから、渋谷スクランブル交差点方面に斜めに右折する車が、一斉に走り出してくる。
山之辺は、スーツの内ポケットから、スマートフォンを取り出し、グーグルマップで、目的のビルの位置を再確認した。アポイントの時刻 14時には、まだ30分ほどの時間の余裕があった。
採用面接では、アポイントのジャストの時間で、オフィスの受付の電話を鳴らすのがよい。
遅刻は論外。
一方で、早すぎても面接担当者が、前の業務を終えていなければ、印象を悪くしてしまう。14時きっかりに、受付に訪問するため、30分前に訪問先のビルの一階入り口に行き、指定のフロアーにその会社が間違いなく入居することを確認することが採用面接の、訪問の基本だ。
今日の訪問先は、採用企業ではない。その採用企業を紹介してくれる人材紹介会社だ。しかし、人材紹介会社は、採用企業の人事責任者と、強い人脈を持っていることが多い。ある程度、高度な人材を求人する場合、多忙で規模が大きい企業の人事責任者は、初期の人選を、信頼できる人材紹介会社のエージェントに任せたり、その意見を尊重する。
つまり、人材紹介会社は、採用企業に発言力を持っていることも多いのだ。だから、人材紹介会社を訪問するときにも、採用企業の面接と同様に配慮をするのが、応募のコツだ。
都内の私立大学 中央大学を卒業してから、3年間。
山之辺は上場の住宅メーカー積山ホームで、個人向け営業を積み上げてきた。注文住宅営業部門で、個人の住宅建築営業を担当してきた山之辺は、アポイントの30分前には、必ず約束の場所に到着する営業訪問の癖がついていた。いつもの住宅建築営業であれば、そうして、訪問先の顧客の家の前で、その顧客の今の家を眺めながら、これから始まる商談のセールスストーリーを頭の中で反芻する。顧客の経済的な水準や、今の暮らし方を頭に浮かべながら、今日の商談のポイントを確認し、商談戦略を練るのだ。
しかし、今の山之辺にとって、その積山ホームの仕事は既に過去のものになっていた。山之辺は、この7月に積山ホームを退職している。
午後2時きっかり。
山之辺は、訪問先の会社の受付にたって、受付の受話器をとった。
「はい、株式会社バリューフェス・キャリア受付でございます」
透き通った声の、20代の女性が受付の電話を受けたようだ。
「恐れ入ります。お仕事のご紹介をいただく件で、御社のキャリアコンサルタントの方と、14時にお目にかかることになっております、山之辺と申します。」
山之辺は、そつのない営業マンらしい口調で受話器に向かって、そう応え、誰もいない受付に向かって丁寧にお辞儀をした。たとえ、受話器の向こう側にしか、相手がいなくても、山之辺は、常に、目の前に相手がいるかのように、礼儀正しく振舞う。このような態度は、声になって、相手に伝わるものなのだ。
競合が激しい住宅営業の世界で、他の住宅メーカーの営業マンから、一歩先んじて顧客の信用をえるために、山之辺は、あらゆる営業上のアクションを細心に計算して行動に移すことができる漢だった。だからこそ、住宅メーカーシェアートップの最大手企業 積山ホームで、数千人いる営業マン中、新卒から数年間、トップ成績の優秀社員表彰を毎年受け続けることができるような、凄腕の営業マンになったのだ。
受付で待っていると、ほどなく、オフィススペースのドアが開いて、小柄な20代の女性社員が現れた。
切れ長な目をした、面長な顔。松本零士の、アニメのなかに登場するような、綺麗な女性の面もちだ。
「お待ちしておりました。私、山之辺様とメールをやり取りさせていただいておりました溝口香里と申します。本日は、山之辺様に、弊社の代表取締役が、直接、お話をお伺いしたいということになりまして、通常の人材紹介事業部の会議室ではなく、代表の部屋にご案内させていただきます。」
山之辺は、積山ホームを退職した後、人材紹介会社のエージェントが人材募集案件を登録する専門サイトで職を探し、そのいくつかに、自分の履歴書や職務経歴書を送っていた。その中で、会社名非公開の営業管理職の求人案件を出していた、株式会社バリューフェス・キャリアに対し、その案件に応募したい旨のメールを送ったのだ。
すぐに返信されてきたメ-ルの要求に従って、株式会社バリューフェス・キャリアに自分の履歴書と職務経歴書を送った。幾度かのメールのやり取りの後、株式会社バリューフェス・キャリアから、山之辺に直接お会いして、お話をしたいという連絡があり、結果、本日の14時にアポイントが決まったというわけだった。
調べてみると、株式会社バリューフェス・キャリアは、通信機器の販売を主力事業とした一部上場企業である、株式会社バリューフェスの100%子会社だった。役員をホームページで調べてみると、代表取締役は、親会社である株式会社バリューフェスの取締役を兼任する、阿部洋次と表示されていた。そこまでは、来社までに調べていた。
しかし、まさか、一部上場企業の取締役を兼任する人材紹介会社の社長が、一介の求職者である山之辺に直接会う、とは、思っていなかった。少し戸惑った山之辺の先を、溝口香里は先導して歩き、社長室と標識が書かれた部屋をノックした。
「山之辺様、お越しになられました。」
溝口香里がドアを開けた部屋の入口に立ち、山之辺は、部屋の中に向かって深くお辞儀をした。
「ご多忙の中、阿部社長様にお目にかかれ、光栄です。私、山之辺伸弥と申します。」
訪問前に、バリューフェス・キャリアの社長の名前を、事前に調べていることを、暗に強調した。
小振りな部屋ではあるが、入り口の正面には、新宿の高層ビル群がはっきりと見える大きな窓。その前面に、広い役員机が配置され、役員応接セットがどっしりと置かれている。役員用の、どっしりとした机に据えられた、皮の椅子に、眼光の鋭い漢が座っていた。この漢が、代表取締役の阿部だな、と山之辺はは直観した。
鍛え上げられた営業の経験を眼光に宿し、営業で相手に笑顔を見せても、その眼は決して笑わないタイプの漢だ。一方、阿部は、山之辺の最初の挨拶に、満足したようだった。
阿部もまた、最初の挨拶で、山之辺を鋭く観察し、こいつは出来るな、という直感的な印象を山之辺に対して抱いていた。
「ああ。山之辺さん。ようこそお越しくださいました。私が、社長の阿部です。」
名刺よりも先に、阿部から差し出された右手は、握手を求めていた。その右手に向かって、山之辺が自分の右手を差し出すと、阿部は、がっしりとした手でその手を握ってきた。
強いグリップだった。
「まあ、おかけください。溝口くん、コーヒーを入れてきて。さっき、おいでになった、バリューフェスの坂田副社長からいただいた、コナコーヒーで入れて頂戴。」
「まず、旨いコーヒーでも飲みながら話しましょう。」
阿部洋次社長は、そういって、ソファーに自ら先に腰を下ろした。
2.人材紹介 求人票
阿部は、雑談をせずに、すぐに用件に切り込んできた。阿部は、求職をしてきた山之辺伸弥に渡すため、2枚の求人票を手元に持っていた。
阿部は、2枚の求人票のうち、1枚目を山之辺に手渡した。
「山之辺さん。今回のご縁は、あなたに、弊社が掲載している非公開の求人に応募いただいたことからスタートしました。その案件が、この求人票の会社です。」
非公開の求人とは、求人企業が、自社が求人募集をかけていることを求職者一般に情報開示せず、特定の人材紹介会社だけに求人を依頼する求人手法のことである。
今、求職マーケットでは、求人を頻繁にかけたり、求人を求人サイトなどでかけ続ける企業は、求職者から、「人が採れず、採っても問題があって、すぐに辞めてしまうブラック企業」という評価を受けやすい。このような評価を避けるため、自社が中途社員を求人していることを求人媒体で公開したくない、という事情が求人企業側にある。
また、上場の有名な企業が求人媒体で、公開求人をしてしまうと、求職者の応募が集中し、本当に採りたい人材を選別しにくくなる。優良な大企業は、選別した戦力になる人材だけに絞り、選考をすすめたいというのが本音だ。
そういった企業が人材紹介会社を使って、非公開で人材紹介会社に一次的な人材選別をさせ、その絞られた人材を徹底的に採用検討するのが、非公開求人という手法だ。
「その会社は、株式会社美月林業。一部上場の注文住宅建設会社です。住宅メーカー最大手の積山ホームにおられたあなたなら、当然、この会社の詳細情報はご存知でしょう。私が会社の説明をするまでもなく。」
山之辺は、阿部から手渡された1枚目の求人票を手に取った。求人票は、株式会社バリューフェス・キャリアが作成したもので、美月林業の会社概要と求人職種である営業職の業務内容が記載されていた。求人票の上に、「非公開注意」と朱書きがされている。
山之辺は、求人票から目を離し、阿部の目をまっすぐ見据えて、応えた。
「美月林業とは、これまで、私が住宅展示場をホームベースにした、個人向け注文住宅営業で、嫌というほど、競合してきました。資本金326億円。昨年度の売上高は、投資家向けIRによれば1兆2,200億円。私がおりました積山ホームは、昨年度2兆1,593億円の売上げですので、美山林業は、業界首位の積山ホームの約半分程度の売上規模だと思います。
積山ホームは、工場生産方式のプレファブ住宅の最大手ですが、美山林業は木造軸組工法の最大手です。」
阿部は、自分のいた会社と競合会社の業績の数字を、資料を見ずにすらすらと口にする山之辺の、よく動く唇を見つめながら、ソファーに深く座りなおして、次に質問する内容を素早く頭の中で整理した。
「私は、もともと通信系販売会社の営業出身です。それですから、住宅建築業界のことは全くわからないので、お聞きします。プレファブ工法と木造軸組工法というのは、家の建て方として、どのように違うものなのですか?」
山之辺は、阿部に見つめられた唇に、うっすらと、笑みを浮かべながら応えた。
「プレファブ工法というのは、プレ・ファブリケーション工法という意味です。建築物の部材の一部または全部を、あらかじめ工場で制作し、それを建築現場で組み立てます。
木造軸組工法というのは、在来工法とよばれる、日本の伝統家屋の基本的な工法です。
プレファブ工法は、建築現場での作業が少なく、したがって、工期が圧倒的に短いのが特徴です。また、価格も抑えることができるため、価格競争力がマーケティング上の強みになります。
積山ホームは、この圧倒的な価格競争力を武器に、戦後、成長してきた代表的な住宅メーカーです。一方、木造軸組工法は、梁と柱をくみ上げ、棟上げを行い、建物の躯体を創ります。そのため、工期が長く、価格も高くなります。
但し、美月林業は、旧財閥系の美月グループの企業です。もともと、林業が従来の主力事業でしたので、高級な国産木材を自社調達できる強みを持っています。そして、国産木材のブランド企業ですから、消費者からは、高級注文住宅としてのブランドも確立しています。近年では、相当な価格競争力も発揮しています。ですので、高級感のある「木の家」を、低価格で販売できるという強みを近年は武器にしています。私も、これまで、数限りなく美月林業とは競合してきましたし、特に高級志向の木の家に拘る客層に対して、私も相当に美月林業には苦戦してきました。
非常に強い競争力を持った、いい企業だと思います。もちろん、強い競合先として、美月林業を破るための、商品研究もしてきました。
美月林業の家の強みは、あちらの社員以上に私はよく研究していると自負しています。もし、私が美月林業の家を売るとなれば、初年度から上位の売り上げをたたき出せます。
私は、積山ホームで、昨年は個人販売実績を、年間40億円強、出しています。
積山ホームのトップセールスマンは、個人単位で数十億円売る連中が結構います。工期が長く、脚がとられる、美月林業では、おそらくそこまで売る個人セールスマンは、いないのではないかと思います。
私の個人成績は、積山ホームの全社員に配布される社内報で、トップセールスランキングとして個人名入りで公表されています。
美月林業は、競合として、業界最大手の積山ホームの内部情報をかなり詳細にリサーチしているでしょう。積山ホームの社内報なども情報資料として入手されていると思います。私の成績実績は、おそらく、美月林業側でも直ぐに確認できると思います。
私であれば、初年度から、美月林業のトップセールスになれると自負しております。」
阿部は、内心、舌を巻いた。
通信業界の場合、上場企業であるバリューフェスでも、長年、トップセールスを張ってきた阿部でさえ、個人の年商数字は2億円程度だった。顧客単価が違い、利益率構造が異なるとはいえ、個人で40億を売るなどというのは、阿部の属してきた通信業界では聞いたことがなかった。
完全に単位が違っている。
「本当であれば、化け物だな」と阿部は思った。
この化け物だと自称する山之辺は、果たして本物かどうか?
これが、阿部の最大の関心事だった。だからこそ、この山之辺を、部下ではなく、自ら会って、その実力を確かめたいと、阿部は思ったのだ。
NTTの民営化を契機にはじまり、携帯からスマホに移行した、革命的な通信機器を営業の商材に据えて、通信業界でトップセールスを張り続け、バリューフェスのトップセールスから、取締役にまで上り詰めた阿部は、山之辺の中に、溢れるほどのトップセールスの資質を感じ取っていた。
相手の目線にあわせて硬軟に変化する話術。柔らかい、物腰。
年上からも信頼される誠実な、態度。
己の力を信じてぶれない、強い意志。
しかし、それでもまだ、この段階で、山之辺の実力がどこまでかを確認せずに信じるほど、阿部は、世間知らずではなかった。営業力があっても、企画力や、管理能力は、まったく未知数だ。ただ、この時点で、阿部は、この漢が本物かどうか、徹底的に裸にする価値がある、と感じていた。
勿論、人材紹介をするだけであれば、そんな必要はない。人材紹介事業などというものは、尤もらしい履歴書と職務経歴書を持ってくる「人材という名の商品」を、大企業の人事部に売って、仲介手数料を企業から得るだけの、「仲介ビジネス」に過ぎない。短期で、人材側が辞めたり、クビになったりしさえしなければ、その人材が企業に貢献しようが、しまいが、そんなことは、人材紹介会社の知ったことではない。
それが、人材ビジネスというものだ。
しかし、阿部が山之辺に見出そうとしている可能性は、阿部のもっと深遠な戦略が絡んでいた。そんな戦略の意図の片鱗も表情に出さずに、阿部は、さも感心したかのような驚きの表情を作って、山之辺に言った。
「あなたなら、美山林業の人事部は、非常によい方が応募されてきたと感じるでしょう。私は、美山林業の取締役人事部長を、よく知っています。あなたを彼に強く推薦しましょう。あなたには、下からの面接ではなく、美山林業の取締役人事部長に、直接、お会いいただくように、私が段取りをつけます。
そして、あなたの面接には、私も同席するようにしましょう。
同時に、あなたには、もう一件、お勧めしたい求人があります。弊社の親会社の株式会社バリューフェスです。」
そう言って、阿部は、自分の手に残してあった、もう一枚の求人票を山之辺に手渡した。
「丁度、いま、バリューフェスの営業システム部が、優秀な人材を求めています。責任者は、アメリカのコンピューターハード業界の最大手 IGMから私がヘッドハンティングして来た、非常に優秀な執行役員です。その男が率いている部著です。
こちらも一緒にご紹介しますので、面接に行ってみてください。こちらは、山之辺さん、お一人で面接に行っていただきましょう。詳細は、追って、先ほど、ご案内した溝口香里からご連絡をさせます。」
山之辺は、ちょっと首を傾げた。
美山林業の取締役人事部長と、直接、一次面接を設定してもらうのは、非常にありがたいことだったが、何故、人材紹介会社の社長の阿部が、積山ホームの面接に同席するのだろうか?
自分の会社である、バリューフェスの面接に同席するというのなら理解できるが・・・。
「この、おっさん、何を考えているのか?」
にこやかに礼を述べて、退席して、宮益坂を渋田方面に下っていく山之辺の眉間には、心なしか、皺がよっていた。
この漢、非常にカンも鋭い。これから、彼が巻き込まれる運命の予感を、この時点で感じ取っているのかもしれない。
続く