国際ビジネス小説「頂きにのびる山路」転職編 前の話はこちら
1.銀座 料亭
料亭「鳥金」は、名古屋コーチンの名店として、名古屋の錦に本店と料亭店舗を構える老舗だ。その東京銀座店に、阿部洋次は、山之辺伸弥を伴って入った。
「ここの名古屋コーチンの鍋は、最高に美味いんだよ。僕は、名古屋支社の支社長を3年間、やっていたんだ。ここの、味噌味の鍋が、たまらなく好きでね。名古屋赴任中、よく単身で、ここの本店カウンターに座り込んで、この鍋をつついていたもんです。」
阿部は、席に着く前に、山之辺にそう語った。
半個室の席には、来客の用意が3名分、整っている。
阿部と山之辺の2人は、席に座ると、阿部のお勧めの鍋を始めずに、名古屋コーチンの刺身を肴に、獺祭の冷酒で、まずは乾杯した。山之辺の、冷酒の盃を空ける呑みっぷりをみて、阿部は感心した。
「山之辺さん、相当いける口だね。呑みっぷりがいい。多分、僕が、あなたと同じように付き合って呑んでいたら、1時間でダウンしちゃう。」
山之辺は、その後も、盃をあける速さに全く変わる様子がない。盃を重ねて、二人の雰囲気は、面談のときの固さが少し和らいできた。
山之辺は、自分のこれまでの営業の仕事について、阿部に語っていた。
「建設の営業というのは、ご想像通り、とても酒の席が多いんです。私は、住宅メーカーでしたから、ゼネコンの営業のような過剰な接待はありませんでしたが。ただ、協力会を構成する下請の建設会社の社長との調整事や、お客様である土地資産家の方の有効活用の営業など、酒の席を仕事の場にすることは多かったのです。
それに上棟式では、お客様の代わりに、現場の職人さんたちに気持ちよくなっていただき、スムースに仕事を進める段取りをするんです。普通、積山ホームのようなプレハブ建築の住宅メーカーでは、棟上げという日本の在来工法特有の作業がないため、上棟式は行わないのですが、私は、お客様にあえてお願いして、やっていただきました。現場の職人さんたちは、結構、上棟式を楽しみにしているんです。職人さんたちに気持ちよく仕事をスタートさせると、細かいところで、仕事の納まりが変わってくるのです。」
阿部は、既に少し赤くなりかけた目をしながら、言った。
「美月林業の神崎さんも言っていたが、あなたほどの営業実績をあげているにも関わらず、受注後のお客様にまで細心の配慮を払うということは、なかなかできることじゃないよね。通信機器の業界の営業マンなんて、販売したコピー機を契約したお客の名刺の整理すらしない奴が多いんだから。リース会社の力で営業をしているだけで、これを自分の営業力と勘違いしてしまう輩が多い。だから、転職をすると、まったく通用しないんだよ、他の業界の営業では、ね。」
こう話しながら、上座に座っている阿部の目が、ふいに、店の入り口に釘付けになった。店の中の、男性客の視線も、阿部と同様、入り口に一斉に注がれていた。
店の女将が、有名人でも来店したかのように、入り口から入ってきた和服の女性に丁寧な挨拶をしている。
「姉貴!ここ、ここ!」
山之辺は、その女性に向かって手を振った。
「え!あの方が、今日、お越しになると言っていた、山之辺さんのお姉さん?
うわ!流石、銀座の高級クラブのホステスさんだな。そこいらのキャバクラのホステスとは、貫禄が違う。どこかの、有名女優さんかと思った。」
女性は、山之辺を見つけると、阿部の席にやってきた。秋の七草をあしらった着物に、源氏物語絵巻が描かれた西陣織の帯を纏っている、女性は、銀座の並木通りの夜の高貴な香りを、店の中に振りまいている。
店の女将も、銀座の超一流クラブのホステスは、上客を多数連れてくる、上得意客らしい。女性に満面の笑みを浮かべて、席に案内をしてきた。
「弟が、これからお世話になるとお聴きしました。姉の、優紀でございます。と、申しましても、優紀というのは、銀座の源氏名でございますが。」
彼女は、席に案内されると、阿部に丁重に挨拶し、阿部と名刺を交換した。
会員制クラブ エルドラド
山之辺 優紀
和紙製の名刺には、こう書かれてある。
2.副業 構想
優紀が山之辺伸弥の隣に座り、鍋が運ばれてきた。その鍋を女将が作るのをみながら、山之辺伸弥は、阿部に、優紀と自分の、これまで、人生の経緯を話し始めた。
山之辺が、阿部に面談の時に相談した、「副業」の話。これを、阿部に詳しく話をするため、山之辺伸弥は、自分の姉の優紀をこの席に呼んだのである。
優紀と、山之辺伸弥は、7つ違いの姉弟だった。山之辺が、私立の中央大学法学部に入学した直後、山之辺の両親は、突然の交通事故で他界した。雑誌のファッションモデルをしていた優紀は、弟の学費を負担して、大学を卒業させるため、モデルの仕事を辞めて、銀座の高級クラブのホステスとなり、弟を大学から卒業させた。
山之辺は、もともと、中央大学在学中から、司法試験合格を目指し、法科大学院に進学することを目指して勉強をしていた。
しかし、両親の突然の他界で、その夢は失せたのだった。
山之辺は、新卒の就職先で、営業コミッションが入り、実力次第で高収入を望める建設業界の積山ホームを就職先に選び、その後数年間、営業実績を積み重ねた。
一方、30歳を超えて、ファッションモデルとして活躍していた、その美しさに、妖艶な女の魅力を加えた優紀も、銀座の高級クラブを何店舗か経験し、今では、銀座並木通りの名門クラブが入る、通称「ウオータービル」のワンフロアーに店を出す、会員制高級クラブ エルドラドの、ナンバーワン・ホステスにのし上がっていた。
会社の接待交際費を湯水のように使える企業幹部や、成功した自営業者、医者や弁護士など。多数の上客を持つ優紀も、30歳という節目を超え、ホステスとしての道の行く末を、考えねばならない歳に来ていた。
永久指名制の銀座のクラブでは、若いホステスに客をとられるということはない。しかし、一席当たり一晩で30万円から50万円の費用がかかる銀座の高級クラブには、勿論、「一見の客」など入れるはずはない。
優紀も、不況の度に客を減らしていることは事実だった。そして、新たな客の獲得には、若いホステスが有利だった。
既に、弟の伸弥は、優紀の経済的な保護を必要としていなかった。むしろ、伸弥は、自分の大学を卒業させるために、ファッションモデルという華麗な職を捨てて、水商売に入った姉を、今度は、自分の経済力で支援しなければならないと思っていたのだ。
積山ホームを退職し、山之辺は、自分の独立の構想も頭におきながら、姉と将来のことについて話し合った。
優紀には、話をすれば、資金を出してくれる何人かの有力な上客がいた。はじめ、これらのパトロンを利用して、優紀は、この銀座に小料理屋を出したいと、伸弥に打ち明けた。確かに、優紀は、昔から、母親の影響で、非常に料理が得意だった。その料理は、かなり本格的で、家庭料理という領域を遥かに超えていた。
一定の期間、プロの料理人のもとで修行をすれば、小料理屋の厨房を自分で仕切ることはできるだろう。優紀が自分で調理をし、お客をもてなせば、人件費も圧縮され、経営的には有利だ。
しかし、山之辺は、その姉の資金の調達に異論を唱えた。
「特定の客に、資金提供を受けるべきではないと俺は思う。このような金主の男は、必ず、店に入り浸り、オーナー風を吹かせ始める。
他の客が来なくなり、店は駄目になる。
料理の美味い店はいくらでもある。姉貴が、独りで営業をしている店で、雰囲気がよく、しかも料理がおいしければ、客は、着くだろう。だから、資金は、姉貴自身が調達すべきだ。足りない分は、俺が出し、銀行から俺が保証人になって借り入れをする。俺が、次の仕事をしながら、副業的に姉貴の店の経営を手伝う。
だから、俺と一緒にやろう。弟と一緒にやっていると言えば、多くの姉貴の男性のお客は、店に来て応援してくれる。そのほうが、絶対に特定の男性から資金を出してもらうよりも得策だ。」
こうして、優紀は、弟である山之辺の支援を受けながら、二人で、小さな小料理屋を出店することにしたというわけだ。山之辺が、阿部に話した副業というのは、この店を、姉を支援して、経営することだった。
「成るほど。そういうことだったのか。分かった。とても、素晴らしい話じゃないか。
勤務時間以外の活動であれば、勿論、バリューフェスとしては、その副業、承認する。僕に任せてくれ。僕だって、ほんの少しは交際費を使える立場だ。出来る限り、応援もさせていただきますよ。」
阿部は、力強く請け負った。
山之辺は、その後、阿部を、優紀が務める銀座のクラブ エルドラドに案内した。
「山之辺くん。これは、凄い店だな。さすがに、銀座の最高級クラブだ。バリューフェスの役員が、大井川社長に連れて行っていただく店なんかとは、格違いだ。」
阿部は、二次会で山之辺が案内した、エルドラドの店内を見回して、溜息をついた。
その阿部の心配そうな顔を見て、山之辺は言った。
「阿部社長、ご心配なく。この店は、姉貴が私の就職祝いということで、今日は、姉貴の奢りです。
ただ、阿部社長が、お気に入りの女の子ができて、次に私に内緒で店に来るとすると、一晩で50万円は請求されます。必ず、限度額なしのゴールド以上のクレジットカードを持ってきてくださいね。」
阿部は、肩を竦めた。
「くわばら、くわばら。」
店には、色とりどりの大胆なドレスを纏った女性たちが闊歩している。
「山之辺さん!いらっしゃいませ!」
年のころ、20歳を少し超えたと思われるホステスが、山之辺の名前を呼んで、山之辺の隣に座り、山之辺にもたれかかり、山之辺の手を握った。
「奈美。今、俺は、失業中だぜ。そうそう、紹介する。今日、ようやく、その失業から脱却することになってね。こちら、今後の上司の阿部さん。」
「ああ、よろしく、ね。阿部さんね?」
阿部は、既に、自分の両脇に座った美女たちを見回し、鼻の下を伸ばしてしまっている。
山之辺は、隣の奈美の耳に口を寄せた。
「奈美。姉貴と経営する小料理屋。いよいよ、資金の調達に入る。資金のめどがつけば、姉貴は、ここを辞めて料理の修行に入る。俺は、店を探し、店舗を建築する。
奈美。君も、本当に、ホステスを辞めて、姉貴の料理屋で働くのか?」
奈美は、阿部の隣で、嬌声をあげる二人のホステスたちに見えないように、山之辺の耳に自分の口を寄せた。
「山之辺さん。あたしはね、あなたのお姉さんの優紀さんに、ここまで育ててもらったの。優紀さんの、お客様を預かり,優紀さんに成績を稼がせてもらってきた。私みたいな、中途半端な女が銀座のエルドラドで、一人で、のし上がるなんて、とても無理。これまで、優紀さんがいたからやってこれたんだよ。
だから、優紀さんが辞めたこの店に、いる気、ないの。それに、山之辺さんが優紀さんと一緒に事業をするなら、私、優紀さんと山之辺さんについていく。
勿論、優紀さんみたいに、料理上手くないけど。だけど、男の接客なら任せて。どんどん、呑ませて、たっぷり、売上あげる自信あるから。」
山之辺は、笑った。
「おいおい。健全な小料理屋なんだぜ。奈美ちゃんの、コミッションを稼ぐ、ぼったくりバーになっちゃいそうだな。」
優紀は、奈美を連れて、このエルドラドから退職し、小料理屋を奈美に手伝わせて銀座に開業する、というのが、山之辺と優紀が立てた、事業の人員計画だった。
優紀の着替えも終わり、優紀が席につく。華やかなドレスを纏った女たちの中でも、和服の優紀の美しさが、ひときわ輝いた。
「あらあら。奈美ちゃんと、伸弥。こんな早い時間から、そんなにべったりしちゃって。」
優紀は、山之辺にくっついて離れない奈美を見て、笑っている。優紀がついたことで、席には、ドンペリの赤が運ばれてきた。
乾杯の掛け声を、もう、顔を真っ赤にしている阿部が発すると、席は、女たちの香りと嬌声に満ちていった。
3.大企業 陰謀
表参道のインテリジェンスビルに入る、株式会社バリューフェス本社。その奥には、大井川秀樹の使う社長室と並んで、それより少し狭い副社長室が鎮座する。副社長の坂田将は、大阪出張に出かける前に、社用車を地下の駐車場に待たせて、総務部長の加藤仁一を、副社長室に呼んでいた。
加藤は神経質そうな小さい顔に、細い眼鏡をかけていた。そして、加藤とは対照的に、頑丈な体格をして、どっしりと深く役員席に座っている坂田に対し、机の前に直立不動の姿勢で立ちながら、業務報告を行った。
加藤は、坂田の腹心の部長である。
総務部は、人事・経理・財務・IR・法務の、すべての管理部門の領域の業務をカバーしていた。加藤は、その意味で、バリューフェスの頭脳の機能を担当していた。比較的、部下に女性社員が多い、加藤の部門の中では、加藤は、常に、部下の女性社員に対して、威圧的で権力的な態度で管理を行っている。しかし、その態度は、加藤の人間性の薄さと、自分の自信のなさを部下に見透かされないための自己顕示の、現れでもあった。
しかし、体育会系的な、飴と鞭で人心を掌握する技術に長けた坂田の前では、加藤は常におどおどと、顔色を見ながら仕事を進めるのであった。
この日、加藤は、坂田に、一通り報告を終えると、いつものように坂田の顔色をうかがってから、昨日の部長会議の話題を坂田に切り出した。
「副社長。昨日の阿部取締役から起案があった、海外進出コンサルタント部門創設に関する件ですが。
副社長は、何故、一切、ご意見をおっしゃらずに、案件を阿部取締役のご提案通りに、通過させたのですか?坂田副社長には、いろいろと、ご意見がおありではなかったのですか?」
坂田は、眉間に皺を寄せて加藤を一瞥すると、加藤に言い放った。
「何故、俺が、『意見がおあり』なんだ?
意見なんか別にない。大井川社長が、肝いりで、息子の茂くんを、我がバリューフェスに入社させ、阿部取締役の立ち上げる海外進出コンサルティング部に入れると言われている。ここに、俺が異論を挟むことなど、したくない。
阿部取締役の、お手並みを、俺は黙って拝見するだけだ。」
加藤は、何かを言いかけたが、坂田に止められた。
「俺は、今から、大阪に向かう。大阪支社の会議の時間が決まっているんだ。」
加藤は「申し訳ございません」と頭を下げ、副社長室から、そそくさと退散した。坂田は、秘書を呼び、新幹線チケットを受け取ると、小走りで地下の駐車場に向かい、そのまま社用車に向かった。運転手が、慌てて、後部座席のドアをあける。
車は、品川駅に向かって走り出した。
坂田は、車窓に目を向けながら、加藤の口にした「ご意見がおあり」という言葉を思い返していた。
加藤が言いたかったことは、よくわかっていた。阿部は、大井川の念願であったバリューフェスのグローバル事業に名乗りをあげ、坂田に対して、大井川の直命の新規事業で向こうを張ろうとしている。阿部自身が外資系から引き抜いた、水谷という非常に有能な参謀を部下につけた。そして、何やら、住宅メーカーから来たという、山之辺とかいう人材を引き抜き、これを戦力のトップにし、その下に大井川茂をつけるという筋書きで、大井川を納得させたのだ。
阿部は、この計画を、一切、取締役会にもかけず、大井川との直接交渉だけで、この計画を実行に移そうとしたのだ。
坂田は、この阿部の動きを、総務部長の加藤の告げ口で知った。阿部が、山之辺を入社させるにあたり、どうしても、総務部には、年俸報酬額の調整をしなければならなかったからだ。
加藤は、この動きを坂田に告げ、坂田の指示を仰いだ。
「メインバンクの紹介や、有力者のコネなどならいざ知らず、住宅メーカーという異業種からきたなどという、どこの馬の骨ともしらん奴に、1000万円以上の年俸条件など、出せるはずがない。
美月林業が、3000万円だすというなら、阿部は、美月林業に紹介して、紹介料を稼げばいいじゃねえかよ。
ウチでは、出せて、限度800万円だ。そう阿部に言え!」
その時、坂田は、非常に不機嫌な顔で、こう、加藤に指示を出した。阿部は、強硬に1000万円以上の年俸条件を認めろと、加藤に食い下がったが、坂田の不機嫌な指示を受けた加藤は、頑として、これを認めなかった。
交渉力では、阿部はバリューフェスで力がある。その阿部が交渉すれば、普通、加藤は、とても、自力で自説を通すことなど、できない。その加藤の、山之辺の年俸条件を譲らなかった、いつになく強気の態度を観て、阿部は、坂田が加藤に圧力をかけたことに気づいただろう。
阿部は、それで一旦、引いたのだ。
坂田は、これで、山之辺とかいう人材の獲得を、阿部が失敗すると読んだ。
不動産や建設などの業界にいるトップセールスマンなど、どうせ、カネしか、念頭にはないだろう、と当初、坂田はたかをくくった。バリューフェスの条件が悪ければ、山之辺などという、カネにしか転職の価値をみとめないだろう漢は、とっとと、年俸条件のよい美月林業にいってしまうに違いないと、坂田は考えた。
しかし、阿部は、この山之辺という漢を、800万円で、自分の部下に獲得してしまったのだ。
大井川は、非常に喜んだという。
「年俸3000万円の天下の美月林業を蹴って、我がバリューフェスに、800万円でくるとは、非常に骨のある奴だ!
素晴らしい。茂の教育役としては、最適だ。」
こう言って、阿部が連れてきた山之辺に会ったという。
こうして、阿部の事業計画のパズルのピースは、坂田の予想に反して、埋まってしまった。大井川は、このプランを取締役会の議にかけずに、直接、昨日の部長会議で阿部に報告させ、既成事実を作ってしまったのだった。そして、大井川は、新規事業予算として、大井川自身の事業予算から、1億円をあて、阿部に与えたのである。
取締役会を抜いたのは、明らかに、大井川が、坂田に反対の意見を言わせないための筋書きだったと、坂田は理解した。
バリューフェスでは、坂田副社長の権力が、次第に阿部を圧倒しはじめていた。社内の部長クラス以上の人材の殆どが、次期社長は、坂田だと確信し、誰も、坂田に反対できるものがいなくなりつつあった。しかし、それは、バリューフェスをゼロから創業して、これまでにした大井川にとって、あまり面白いことではなかった。坂田が社長になり、自分は会長職にお飾りのように置かれることは、70歳を超えながらもエネルギーに満ち溢れた大井川には、不都合だった。
坂田と阿部という、自分の腹心2名を競わせ、力を均衡させておくことが、大井川にとって、得策であったのだ。
バリューフェスの最大株主である、自分の一人息子を阿部に与えることで、次期社長は、坂田に間違いない、という社内の雰囲気に対し、これをけん制する狙いが大井川にあったはずだと、坂田は読んだ。
従って、昨日の部長会議で、加藤が言うように、坂田が阿部の提案に異議の発言をすれば、それは、阿部にではなく、大井川に、自分に対する不信感を抱かせてしまうことになる。
これが、坂田が部長会議で、一切の異議をさしはさまなかった理由であった。
一方、坂田は、今回の件で、阿部が獲得した山之辺という漢に強い興味を持った。坂田は、阿部にわからないように人事部に手をまわし、山之辺の履歴書と職務経歴書を入手して、読んでいた。
中央大学法法学部卒業後、住宅メーカー最大手の積山ホームに入り、3年間、トップセルスを張り続けた。転職でカネを重視するのかと思いきや、高い年俸を出す美月林業をけって、阿部の傘下に、年収を落としても入ってきた。その動き方に、坂田は目をとめていた。
バリューフェスという大企業の代表取締役を目指す坂田にとって、有能で志が高い人材であれば、必ず自分のチカラにしなければならない。坂田は、そう考えていた。
坂田は、車の後部座席で、スマートフォンを取り出すと、総務部財務課の課長に直接、電話をかけた。
「君に、やってもらいたいことがある。阿部取締役が責任者で立ち上がる、海外進出コンサルタント部門の予算管理についてだ。今後、この部署の単体売上と、販管費の状態を、毎月、俺に、直接、報告をしてほしい。この部署を単体で、カネの出入りを管理したいんだ。
それともう一つ、グループウエアーのサイボウズで、阿部取締役の部門のスタッフの行動を、俺が全部、みれるようにしておいてほしい。
よろしく。」
こう坂田は指示をして、電話を切った。
事業部の立ち上げでは、社長である大井川が自分の管理予算から特別に新規事業部門の資金を、1億円出した。これには、副社長の坂田は、何ら異論を申し出ることができない。
しかし、それは、特別な話だ。
事業が開始され、この初期のイニシャル資金が底をつき、これを超える資金を使用する場合、財務部の手続きを通した正式な承認手続きが必要となる。当然、この時は、坂田副社長の賛同がなければ、予算は執行できない。
もし、阿部が短期で実績をあげることができなければ、坂田は、この時点で、阿部のプロジェクトを予算執行不能で、潰すつもりであった。海外事業は、旅費出張費などのコストや、人件費が費用にかかる。阿部の事業自体も、ゼロからのスタートであるから、当然、そう簡単には、売上げはあがらないだろう。
阿部の手持ちの1億円の資金が切れる段階で、売上げの未達を理由に、部門を潰し、阿部の責任を追及して、取締役から追い落とす、というのが、坂田の筋書きだった。そして、それまでに、山之辺という漢を観察し、それが使える奴なら、自分の直下に移して、活躍させる・・・。
企業では、戦略を実行に移すには、カネが必要だ。カネがなければ、どんなに優れた人材がいても、動けなくなる。坂田は、これまでも、このような予算のパイプを途中で締めるという方法で、坂田と並ぼうとするライバルたちの事業を止め、責任を追及して、追い落とすことで、今の支配的なバリューフェスでの地位を築いてきた。
このような中で、今や、バリューフェスでは、阿部を除いて、誰も、坂田に対抗できる人材がいなくなったのだ。実力があり、自分の将来にライバルとして立ちはだかる人材を、新規事業部門に追いやり、資金投資の最中で、資金供給を止め、業績の未達を理由に、その人材を追い落とすのは、大企業の「役員政治」の基本である。
これまで、坂田が、何故、阿部だけをこの方法で、追い落とすことができなかったのか。
それは、阿部が、坂田がバリューフェスに入社した時の、直属の上司の課長であったからである。体育会系の倫理観を持っている坂田にとって、自分を育ててくれた阿部は、自分よりも下に立っても、これを最後まで追い落としにくかったのである。そのため、阿部だけが、坂田と並びうる取締役に残ってしまったわけだ。
しかし、今度ばかりは、坂田も、そんなことを言っていられなかった。
阿部は、大井川の息子の茂を自分の下につけ、山之辺とかいう、不気味な外部からの人材をいれて、自分の前に明確に立ちはだかったのである。
次は、容赦をしない。坂田は、そう決めていた。
品川駅が近づいてきた。
車の進む方向にある、真っ黒な雲から、激しい雨が、今にも降り始めそうな気配がした。その雲を、坂田は、うっすらと薄い笑いを浮かべながら、見つめていた。
転職編、完結。
次回より、「韓国クラウドビジネス編」がスタートいたします。
お楽しみに。