ニューヨークウォール街ビジネス始動編 第2話「ウォール街」

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会議開始まで、あと7分

緯度の高いニューヨークの夏は、東京に比べて、格段に爽やかだった。

セントラルパークに生い茂る、マンハッタン島開拓前の原生林の面影を残す緑が、摩天楼に向かって、強い存在感を主張している。

ニューヨーク マンハッタン。
東部標準時間 午前9時53分。

ウォール街を象徴する超高層ビル 50ウォールストリートの43階にレセプションを持つ、
WwWコンサルタンツ ニューヨーク本社を訪問した、阿部洋次・水谷隼人、そして山之辺伸弥の3人。

彼らは、その時間に、43階のレセプションから、WwWコンサルタンツ社内専用エレベーターで、48階の幹部コンサルタントの個人ブース専用フロアーに案内された。

案内にたっているのは、身長150センチ程度の、小柄な中華系の女性。

彼女は、3人に、シニアコンサルタント ヨ-スケマツキ(松木陽介)の専属アシスタント エリザベス・シャオイエンであると、自己紹介をした。

“日本人は、海外でも自分の本名でビジネスを行うことが多いですが、中国人や韓国人は、ビジネスネームをキラキラな英語の名前で使うんですよ”、と、水谷は、小声の日本語で、阿部に解説をした。

中華系の女性に特有の、細い凹凸のない体のシャオイエンは、身体に、ぴったりとした黒のビジネススーツを纏い、膝上20センチはあるかと思われるタイトミニスカートをはいている。

空調が完璧に効いているフロアーでもストッキングを履いていない。シャオイエンの細い生足が、そのタイトスカートから、すらりと伸びていた。

それでも、シャオイエンの下着が、かろうじて周囲から見えないのは、膝上の脚がとても長いからに違いない、などと、阿部は、エレベーターの中で、シャオイエンの後から、その臀部を眺めて、考えていた。

一方、山之辺は、世界の富裕層や巨大企業の機密情報を扱うWwWコンサルタンツでは、この巨大ビルの8フロアーを占拠して、その社内移動のための、自社専用のエレベーターをオフィス内部に設置して、フロアー間を動いていることに感心していた。

シャオイエンは、48階にある、松木陽介の個室ブースの入口の、秘書用のデスク前に置かれた、待機用の椅子に、一行を座らせ、あと、7分、そこで待つようにと申し渡した。

松木のスケジュールは、午前10時きっかりまで、ロンドンのシティにある、WwWコンサルタンツ総本部とのテレビ会議が繋がっているため、その終わりをブースの前で待つようにというのが、シャオリエンの指示であった。

7分間、待つように、という台詞。
なんとも、ウォール街の、金融系コンサルらしい。

ここでは、1分刻みで、生産性がカウントされているのだろうと、山之辺は、思った。

開始の時間を、平気で10分も20分も違えて平気な顔をしている、日本のバリューフェスの時間に緩んだ会議とは、それも大違いだと山之辺は、苦笑した。

そして、午前10時00分きっかりに、ブースのドアを、シャオリエンが空けた。
そのジャストなタイミングで、テレビ会議モニターが消されていた。

50ヘーベーはあろうかという、個室。

その奥に、周囲の3面を重厚な机が取り囲んでいる、スペース。

その真ん中のチェアーに座っていた、スリーピースのスーツを纏った、日本人の漢が立ち上がった。

漢の後ろの窓は、大きく、南側にガラス張りで開けていた。その遠景には、海の中に立つ、自由の女神が、はっきりと見下ろせた。

ブースの壁には、3面に、ホワイトボードが埋め込まれており、そこが、英語と数字で、プランニングらしきコンテンツによって埋め尽くされている。

漢の身体から、放たれるエネルギーが、その部屋にある、すべての備品を帯電させている。
その漢こそ、WwWコンサルタンツ シニアコンサルタントの松木陽介だった。

会議での提案

松木は、満面の笑顔を作って、まずは、山之辺に近寄った。

「直接会うのは、何年ぶりか、ね?」

山之辺は、松木の差し出す手をグリップした。

「松木さん。積山ホームでは、本当にお世話になりました。
あの頃には、こうして松木さんとニューヨークでお会いするなどとは、夢にも思いませんでした。

こうして、お目にかかれて、光栄です。

昔と比べて、松木さん、とても貫禄がでましたね。」

その山之辺の第一声に、松木は、大きく相好を崩した。

「あはは。
太ったっていうんだろ?

ニューヨークの食事は、とんてもなく、カロリーが高い。

それに、ここでは、夜、自宅に帰って、低カロリーの健康な食事をとる暇なんて、まったく俺には与えられていないのさ。

それで、見ての通り、日本時代から比べて、体重は激増よ。」

松木は、豪快に笑って、山之辺の横に立っている、阿部と、水谷に、順次、握手をし、自分のデスクの前に設定された、打ち合わせ用のテーブルの椅子に、一同を座らせた。

シャオリエンが、そこに、紙コップのコーヒーを出す。この世界一家賃が高いビルに似合わず、その珈琲は、安物のインスタントで、紙コップは、格安品のちゃちなものだった。

「収益と、未来の付加価値と、ブランディングに換えられないものには、一ドルのカネも使わない。」

紙コップと、オフィスのアンバランスさは、来客に、ここの貫徹した経営哲学を、そう主張していた。

水谷が、松木のデスクの後ろに広がる絶景に目をやった。

「松木さん、素晴らしいオフィスですね。

自由の女神を、独占しているようだ。
まさに、世界の資本家の守護神、WwWコンサルタンツさんらしい、オフィスですね。」

シャオリエンが、パワーポイントの資料を壁にかけられた薄型テレビに映し出すと、水谷のお世辞をスルーして、松木は、前置きもなく、提案の本題に入った。

「さて、阿部さん。

私が、既に、東京へお送りしたご提案の内容を、既に御社で吟味をいただいているものと思います。

それに対して、わざわざ、ニューヨークまで、ご多忙な3人がご出張になられたということは、重要な協議事項、遠隔会議では話せない協議事項があるということと推察致します。

ずばり、その論点から入りましょうか?

時間が限られていますので、端的にお願いします。」

阿部は、松木が投げてきた直球に、少々面食らった。

どうやら、この漢には、東京から、14時間ものフライト時間をかけての表敬訪問や、社交辞令などという言葉は、通用しないらしい。

阿部は、咳ばらいを一つすると、静かに、話しはじめた。

「では、短刀直入に、申し上げましょう。
これから話すことは、実は、まだ、山之辺くんにも、話していない内容だ。

山之辺君も、そう思って聞いてくれたまえ。」

「実は、私どもは、松木さんからご提案いただいた、ProjectAとProjectBの2つの案を拝見し、吟味致しました。

松木が、株式会社バリューフェスに提案した内容は、ニューヨークウォール街ビジネス始動編 第1話「回顧と迷走」の、ProjectAと、ProjectBをご参照ください。

この案を、弊社、株式会社バリューフェスの取締役会で協議した結果、わが社は、松木さんのご提案のprojectAのみを採用させていただくことに決定致しました。

それで、今回は、松木さんのWwWコンサルタンツと経営顧問契約を交わせさていただき、ProjectAに関してのみの、ご支援をいただくお願いにあがったのです。」

松木は、自分の机に肘をつき、腕で三角形を作って、阿部の話を聞きながら、松木の机の前に並んで座る3人の表情を観察していた。

阿部が、取締役会で決議したと発言した時、水谷の表情が、強くこわばったのを、松木は見逃さなかった。

水谷の眉間に瞬間的に皺が寄り、横に座る阿部の顔を観た水谷の表情には、強い不信感の色が浮かんだ。

水谷は、バリューフェスの執行役員である。取締役会メンバーではないが、取締役会の議事録と決議内容を観ることができる立場にいるはずだ。

上場企業の取締役会は、単なる会議体ではない。代表取締役の職務を監視する、日本の会社法が定める正式な会社の機関だ。その協議事項は、会社法の規定する内容であり、議事録は、極めて重要な意義を有する。

水谷の表情の動きから、松木は、阿部の話の中に嘘があると見抜いた。

ProjectAだけを採用するということを、取締役会で協議し、決議してはいないな、と、松木は感じた。projectAのみを採用するという方針は、取締役である阿部の一存で決めたことだろう、と、水谷の表情をみて、松木は悟った。

一方、その隣に座る山之辺の表情は、水谷以上に険しくなっている。

松木は、自分の言葉を飲み込んで、一旦、沈黙を守った。

気まずい沈黙が続いた。
まず、その沈黙を破ったのは、山之辺だった。

「阿部取締役。

お言葉ですが、水谷執行役員や、私は、ProjectAだけを採用するといったお話は、これまで、一切お伺いしていません。

いつ、そのようなことが決まったのですか?

ProjectAは、巨額な事業ですが、現在の世界のSDGsの潮流の中では、期限付きの事業であることは明白です。そのため、ProjectAの利益を投資して、ProjectBの事業の立ち上げを進め、中期的に、ProjectBに移行してゆかなければ、バリューフェスの長期的な収益は確保できません。

それが明白なのに、何故、取締役会は、ProjectA案のみ採用、という決議をしたのですか?
あまりに、短期的な視野に立ちすぎた経営方針ではないですか?

阿部取締役は、何故、その点を役員陣に力説されなかったのですか?」

阿部は、大きく手を振った。

「山之辺くん。

申し訳ない、この取締役会決議事項は、僕の取締役としての守秘義務の範囲内の内容だったので、東京では、水谷さんにも、君にも話をしていなかったんだ。

取締役会は、多数決機関だ。
僕が力説をしても、多数派に反対されれば、僕の意見は通らない。

水谷さんには、往路の飛行機の中で、この話をした。
君には、事前に話をしなかったので、申し訳ないが、これは、残念ながら、既に会社の決定事項だ。

バリューフェスの体力では、とても、ProjectBのような巨大な投資を行えないというのが、取締役会の決議だ。

中長期的な会社の収益は、別の経営戦略に委ねることになった。

従って、海外進出コンサルティングセクションとしては、ProjectAに集中することになった。

山之辺君も、そう思って、この事業に取り組んでほしい。」

山之辺の表情は、非常に険しくなっている。
松木は、こんな険しい表情の山之辺をみたのは、はじめてだった。

山之辺の険しい表情の中に、何故、阿部が、ProjectAの単独実施を主張しているのか、ということに関する疑念がわいているのだろうと、松木は感じた。

松木が知らない、裏側の事情が、このバリューフェスという会社の、海外進出コンサルティングセクションには隠れているらしい、と、松木は、悟った。

それならば、慎重にことを進めなければならない。

松木は、机の上についた腕を動かさずに、阿部に向かって、穏やかに言った。

「阿部さん。

このProjectAと、ProjectBは、私どもとしては、セットのご提案のつもりです。

バリューフェスさんは、今では、れっきとした、東京証券取引所プライム上場企業です。

以前の一部上場と異なり、プライム市場は、日本以外の海外投資家が投資に値すると判断される企業だけが上場できる市場です。従って、プライム上場企業は、単に、短期的な、ROIC(投下資本収益率)さえよければよいという企業ではありません。

長期的な成長力を現在価値に引き直した価値、指標的には、DCF価値、すなわちディスカウントキャッシュフロー価値が重要です。

ProjectAは、短期的に、今のバリューフェスさんの売上を、相当な規模、引き上げるものです。従って、もし、これが持続するためのProjectBを伴わなければ、それは、株主に対する企業価値の偽りを犯す行為になります。

オーナー企業であれば、それもよいかもしれません。しかし、プライム上場企業に対して、そのようなご提案をしてよいかどうか、WwWとしても、少し検討させてください。

一方では、阿部さんがおっしゃる、別の経営戦略の内容もお聞きしなければなりません。

まずは、本日は、阿部取締役からの御意向として、ProjectAだけを単独で、お進めになる決議を取締役会がなされたこと、承りました。

一旦、これに対するWwWの見解を整理しますので、それまで、バリューフェスさんとWwWの経営顧問契約の締結は、保留させていただきます。」

阿部は、松木を見下したような表情を浮かべて、松木の話を聞いていた。

「どうせ、お前ら、米国のハゲタカなんぞは、こちらの業務提携コンサルティング報酬の引き上げを図るため、もっともらしい台詞で、じらしているんだろう。」

阿部の松木を観る目は、そう語っていた。

その阿部と松木のやりとりの様子を眺めながら、山之辺は、既に気づいていた。

阿部が、短期的に莫大な濡れ手に粟のような事業モデルであるProjectAだけを採用したいと言い出したのは、取締役会の決定でもなんでもない。

山之辺が、そう気づいたのには、理由があった。

山之辺が副業で、銀座に開店した、日本料理花月には、副社長の坂田将が通ってきていた。坂田と山之辺には、花月の中居 雪子を介在して、阿部が知らない人脈が出来上がっていた。

これを、阿部は、まだ知らない。

坂田将と、山之辺伸弥の関係は、副業飲食起業編 第3話「秘密同盟」をご参照ください。

今、副社長の坂田は、山之辺を通して、阿部の直下である海外進出コンサルティングセクションの動きに関する情報を入手していたし、山之辺は、坂田から、バリューフェスの取締役の動きや、阿部の微妙な立場など、会社全体の情報を得ていた。

だから、阿部が突然、ニューヨークに来てから言い出した、ProjectA案だけにバリューフェスが集中する、といった決議は、取締役会で行われていないことを、山之辺は知っていたのだ。

何故なら、副社長の坂田に、松木の提案したProjectのA案とB案の内容をリークしたのは、紛れもなく、山之辺だったからである。副社長の坂田が知らない内容が、取締役会で決議されるはずがない。

阿部は、この案を、自分以外の取締役だれにも、話しさえしていないと、山之辺は既に気づいていた。

では、何故、阿部は、それで、ProjectA案だけを進めようとしているのか?

その答えは、簡単にでる。

ソウルにいて、実績が思わしくない、現社長 大井川秀樹のひとり息子 大井川翼を、ソウルからニューヨークに異動させ、ProjectA案の責任者にし、松木のチカラを使って、短期的に、大井川翼に、莫大な業績を作らせるつもりでいるのだろう、と。

ソウルにおけるGLU+との事業もそうだったが、今回も、阿部は、山之辺にビジネスプランを作らせ、その果実を、また、大井川翼に食わせるつもりであるのだろう、ことは、もう容易に想像がついた。

大株主と取締役の殆どに、絶大な支持を既に持っている、副社長の坂田に対抗するためには、短期的に、莫大な収益をバリューフェスに齎すProjectA案が最適だと、阿部は踏んだのだ。

あるいは、大井川秀樹の意向も、その策には入っているのかもしれない。

「そこまでして、さして能力もない、創業者の息子を、絶大な実績と実力を持つ坂田に対抗させなければならないのかよ?」

山之辺は、静かに目をつぶって、湧き上がる憤怒の情を沈め、心を落ち着かせた。

かつて、山之辺は、阿部に面接を受けて、バリューフェスに入社した。

しかし、いまは、もう、阿部と山之辺との間には、当時のような信頼関係は存在しなくなっている。

「阿部さんも、変わったな。」

改めて、見開いた目で、山之辺は、今、目の前にいる阿部に冷たい視線を送っている。松木は、その様子も、静かに、観察していた。

情報屋「トカゲ」

松木は、次の予定があると言い、バリューフェスの3名をオフィスからだし、秘書のシャオリエンにエントランスまで見送らせた。

3名が、オフィスから出ると、松木は、スマートフォンを取り出した。
”TOKAGE”と表記されている番号に架電する。

スマートフォンを耳にあてると、豊かな椅子の背もたれに寄りかかり、椅子を180度回転させて、窓の外に視線をやった。南向きの窓から、はるか下の、晴れた夏の海に立つ自由の女神を睨みつけた。

電話の先は、日本。

こちら側のニューヨークのオフィスとは、かけ離れた、新宿区の新大久保にある、雑居ビルの地下室で、一人の漢が、薄ら笑いを浮かべて、この電話に出た。

そこは、窓のない、狭い部屋。
机の上には、アルミの灰皿に、山盛りになったタバコの吸い殻が、すえた匂いを放っている。

この部屋の、ビルの標識には、
「柳原探偵事務所」
という、薄汚れた名札が、傾きかけてかかっていた。

その部屋の主、柳原健一は、第一声で、松木にこういった。

「東京の夏ってのは、本当に耐えられないですなあ。

私は、世界で一番、酷い夏の暑さというのは、香港の夏かと思っていましたが、最近の東京の夏は、香港よりひどい。世界最悪です。」

窓のないこの部屋には、壊れかけて、効きの悪い冷房装置があったが、それが吐き出す生ぬるい空気を、扇風機が、無意味にかき回している。

新大久保は、新宿歌舞伎町の裏側の街として、今では、ほぼ完全に朝鮮系の在日によって占拠されている。

柳原は、綺麗な日本語を松木に向かって、電話で話しているが、実は、本名を柳 健一という朝鮮の名前を持っていた。

父親が北朝鮮生まれ、母親が日本人の、ハーフ。

母親のつながりで、国籍は、日本国籍を保有しており、日本人と区別がつかない日本語の話し手であったから、外に出れば、まったく日本人とは見分けがつかないが、彼は、3歳から25歳までを、北朝鮮で生活している「過去」を持っていた。

探偵事務所の経営者を名乗っているが、柳原は、今、北朝鮮 朝鮮民主主義人民共和国 朝鮮人民軍偵察総局に属していた。

つまりは、北朝鮮の諜報員 スパイである。

それを承知で、松木は、柳原を、様々な情報収集や諜報・工作活動に使っていた。

世界の諜報機関とも、密接な情報網を有する、WwWコンサルタンツが調べ上げていた、柳原の経歴は、次のようなものである。

柳原は、3歳の時、北朝鮮に帰国する父親に連れられ、日本人の母親とともに北朝鮮に渡った。北朝鮮が「地上の楽園」と宣伝した、北朝鮮のPRとは全く違い、そこは、住民が相互に監視しあい、密告をしあう、地獄だった。柳原の父親は、柳原が10歳のとき、その密告にあい、父親と母親は、国家保安部の手でどこかに連れさられ、二度と、柳原の前に顔を見せることはなかった。おそらく、父親と母親は、北朝鮮で管理所と呼ばれる、強制収容所に送られたのだろう。

そこは、一度入ったら、死ぬまで二度と出てくることが不可能な、絶望強制収容所である。

柳原も、このとき、命がなくなる運命だったかもしれない。

しかし、そうならなかった。

柳原は、10歳まで、日本人の母親によって育てられ、家庭では、日本語を使っていた。そのため、柳原は、日本語を、日本人と同様に流暢に話すことができ、読み書きの能力も高かった。

子供だった柳原の能力に目を付けた国家保安部によって、柳原は、一人だけ、平壌に連行された。

そして、対外情報調査部の特別訓練所に入れられたのである。

当時の北朝鮮対外情報調査部は、日本人の拉致が国際問題化して、拉致による日本人の獲得ができなくなっていた。そのために、日本人と同様に、日本語を読み書きができ、外見が日本人とまったく異ならない、若い工作員の卵を必要としていたのである。

そして、柳原は、10年間の特別工作員としての、地獄のような訓練を受け、朝鮮労働党に忠誠を尽くす、洗脳教育を受けた。しかし、父親と母親を殺されたと信じる柳原は、洗脳に染まらず、染まったふりだけをし続ける頭脳と要領のよさを持っていた。

こうして、柳原は、非常に優秀な諜報工作員候補生に成長した。そして、20歳で、北朝鮮対外情報調査部の工作員となり、25歳のときに、日本に情報工作員として送り込まれたのであった。

しかし、柳原は、心の底から、北朝鮮という国を憎んでいた。

柳原は、訓練所で受けた訓練を活かして、韓国人になりすまし、日本最大のコリアンタウンである新大久保に潜伏し、そこで、探偵事務所の看板を出した。

そして、北朝鮮から指示される情報収集活動と工作活動を行いながら、東京をベースに展開する米国企業の、日本での情報収集活動を引き受けた。

柳原は、北朝鮮の東京での情報工作活動を続けながら、その宿敵であるはずの米国資本企業の、東京における情報工作活動を引き受けた。

資本主義自由社会と、社会主義独裁社会の、二重スパイになったのである。

WwWコンサルタンツの松木は、このような柳原の経歴に目をつけた。世界最高の情報収集と諜報工作教育を受けた柳原という人材を、資本主義陣営側の情報工作員として使用したのである。

WwWコンサルサルタンツという、イギリス資本帝国主義の権化のような多国籍コンサルティング会社の米国法人の幹部にあって、日本語のネイティブであった松木は、柳原のよき顧客となった。

そして、柳原が、米国企業での情報収集工作活動を行うときの、暗号名が、「TOKAGE」だったのである。

「なんで、TOKAGEなんて、暗号名を使っているんだ?」

かつて、日本の東京の新大久保に、松木が柳原を訪ね、柳原の案内で、日本語が通じないソウルフードの店の片隅で、二人で、柳原が好物の狗鍋(いぬなべ)をつついているとき、松木が、柳原にきいたことがある。

柳原は、その時、背中を丸め、小声で、松木にこう答えた。

「北の特別訓練所ではね。

何日も、極寒の河の中に浸って、飲まず食わずで、行軍の訓練をしたんですよ。
身体が凍り付くような河でね。

空腹と寒さで、身体が限界に至り、体力を失って、もう死んだほうはましだと思った瞬間、河に流されそうになりました。そして、しがみついた岩の上にね。

いたんですよ、トカゲが、一匹。

夢中で、それを掴んで口に入れました。噛まずに飲み込んだ、そのトカゲが、俺の食道を通るときに、暴れましてね。

その断末魔のトカゲの動きを感じたとき、俺は、生きようと思ったんです。
生きて、必ず、この地獄から出て、この地獄のような国に復讐をしてやるってね、そう思ったんですよ。

そして、何日も何も食べていなかったからね。
美味かったんですよ、それが。

それで、俺は、命を繋いで、そして、北朝鮮から出て、今、日本にいるんです。

だから、俺は、TOKAGEなんです。」

世界で最も過酷な訓練を行う北朝鮮対外情報調査部で鍛えあげられた柳原は、日本において望みうる、最も優秀な情報工作員だった。

松木は、その腕を見込み、WwWコンサルタンツにおける対日本情報収集や工作で、柳原を使っていたのである。

その柳原に、松木は、約1月前に、株式会社バリューフェスの社内事情や役員同士の人間関係などの極秘調査を、依頼した。

その柳原と、今、松木の電話は、つながったのである。

続く

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