インドでの求人で、思い知ったカースト制度の影響
「カーストなんて、今はもう、インドではなくなっている」
「IT業界や、エンタメ業界では、カーストなんて、もう無視されている。」
こんな甘っちょろい考えで、インドビジネスに臨むと、大きなしっぺ返しを食らいます。
結論から言えば、インド社会で紀元前1,000年あたりに成立し、従って3,000年ほど、インド社会の構成の基礎をなしてきたカースト制度は、インドでは全くなくなっていないと考えて、間違いはありません。
大英帝国支配においても、その後の独立後も、カースト制度はインド社会の根幹に位置しており、インド社会にかかわりを持つすべての人が、そのコンテクストを知らずして、そこに関われるものではありません。
僕がインドに投資し、野菜第一工場を、インド南部のタルミナードゥ州のチェンナイに創業した初期の話から、入りましょう。
僕は自分自身を、自由主義者であると自任しておりますので、当初、自分が投資する企業では、従業員の雇用はカーストに関係なく行いたいと、現地のインド人社長に話をしていました。
彼は「そうですか。」とだけ答えて、どうも僕の話をスルーした様子でしたので、この投資家としての僕の意向は、現地に受け入れられたものと、軽く考えていました。
その後、会社の事業が創業を開始し、現地の社員の皆さんと、食事をしたりしながら、仲良くなっていく中で、彼らの話から、
「ちょっと待て。ウチの会社の社員には、バラモン(カーストの最上級の僧侶出身者)と、クシャトリア(カーストの第二位に属する王侯貴族を先祖に持つ特権階級者)しかいない。」と、気づいたのです。
彼らは、笑顔で、外国人である僕に、自分がカーストの最上級に位置する、「前世に優れた善行を行って、特権階級に生まれた人間である」と、語るのです。
どうして、ウチの会社では、カーストの差別を設けずに雇用を進めたはずなのに、特権階級の出身者ばかりの会社になってしまったのか、と、僕は疑問に思い、この会社のメンバーとは独立に、URVグローバルグループがバンガロールに設置するインドオフィスの責任者のインド人に、この疑問を投げかけました。
彼は笑顔で、自分も最上位のバラモン出身者である旨を打ち明け、そして彼から帰って来た言葉は、次の通りでした。
「それは、当たり前です。
松本オーナーは、野菜工場の求人で、自分たち幹部層がコミュニケーションをとるため、会社の共通言語を英語に定めて、英語を求人の必須能力にして求人をかけましたよね。
インドでは、公立学校の教育は、インドの公用語であるヒンズー語で行われており、インド人の一般家庭では、インド各地に存在する200以上の現地語でコミュニケーションがとられています。
英語で教育を受けるのは、特別な英語教育をする学校だけで、そこに入れるのは、インドの特権階級である、バラモンとクシャトリア出身者だけです。だから、英語を使っているのは、そもそも上位階級の人間だけです。
バラモンやクシャトリアは、学校で下位身分の人間と隣に座ることも拒否しますし、友人にもなりません。勿論、下位身分の階級との結婚など、論外です。
下位身分の人間がいる現地企業になど、絶対に就職をしません。
だから、下位身分の人間は、仮に独学で英語を学んでも、それを使える環境がありません。
松本オーナーが、インドではいくらカーストを無視しようとしても、自分が英語という言語でコミュニケーションをとれる人が上位身分者しかいないので、下位身分者とは言語すら通じません。言語ごとの通訳も、インドにはいません。」
インド人は英語を使えるというのは、日本人や欧米人の認識です。しかし、その英語を使える対象は、インド人すべてではありません。
上位の非常に限られた人だけなのです。従って、僕たち自由主義陣営の経営者は、言語の上で、インドの下位階層とは、完全に断絶されてしまっているのです。
カーストの最下層 ダリットは、どんな生活をしているのだろうか?
僕が、インドに訪問をすると、現地のインド人スタッフは、投資家を迎える体制を準備してくれます。それはあたかも、彼らがかつてのインドの宗主国であったイギリス人を迎えるような体制です。
空港に到着した僕を、現地運転手が役員車輛であるベンツで迎えに来てくれ、そのまま僕は、ベンツで会社まで連れていかれます。
夜も、現地で手配された外国人向けのホテルまで送迎され、夜は連日、幹部たちとの会食で歓迎されます。
クルマの車窓から見えるインドは、とてつもなく貧乏で、人が溢れる喧噪があるのに、僕が迎え入れられるインドは、その喧騒とはまるで無関係な、現代版マハラジャの世界です。
そのインドに仕事で通ううちに、僕の好奇心がムラムラと芽生えてきました。
僕が接したことも、目にしたこともない、インドのカーストの最下層 ダリットとは、どんな生活をしているのだろうか?、と。
インド人たちが、カーストの中で言う「不可触民」という言葉通り、それはインドの高いカーストが、目にすることも、接することも穢れを伴う、触れてはいけないインドの恥部なのです。
欧米社会では、最近、ダリット出身の芸能人などの話題が出ていますが、これは、どうも、インドの欧米向けのPR戦略であるらしく、インド人たちが、彼らの宗教であるヒンズーの根幹を形成するカーストから、脱却して、自由主義的・合理主義的な発想をしはじめたとは、到底、僕には感じられません。
インド社会は、自由選挙を行う民主主義社会ですが、決して、欧米や日本のような自由主義社会・平等社会ではありません。少なくとも、ダリットが、選挙に参加できているとは、教育面からみても、とても思えないのです。
当時の僕は、不可触民のその実態を直視せずして、インドにおける僕の今後の事業の戦略を語ることはできないのではないかと、思ったわけです。
インドには、最貧国であるバングラディッシュから連れてこられた売春婦たちの巣窟が、どこの街にもあります。
これらの売春窟は、その殆どの女性がエイズに感染しており、しかも、ゴム製品を使う知識やおカネさえ、彼女たちは身に着けていません。そのため、そんなところに、好奇心で行って遊ぼうなら、50%以上の確率で、エイズに感染してしまうと言われています。
しかし、そのような売春窟でさえ、不可触故に受け入れないのが、インドの最下層ダリットなのです。ダリットの女性は、売春すらできない経済状態にあるのです。
そのダリットのスラムが、チェンナイの郊外にあるという情報を、僕は、現地のスタッフの一人から聞き出しました。
そこへ行ってみようと、僕は思い立ったのです。
ダリットのスラムへの潜入を試みる
インドでの一日の仕事が終わり、いつものように会社の役員車輛で、ホテルまで送ってもらったとき、インド人の運転手に、僕は、ダリットのスラムへこれから行ってもらえないか、という交渉を行いました。
彼は、「車でも非常に危険です」「全く面白いようなところではありません」と非常に消極的でしたが、会社に内緒でチップをはずむということで、OKをしてもらえました。
ホテルで準備を済ませ、車は一路、いつもは行ったことがない方角へ。
次第に、街の様子が変わってきて、路が狭くなります。
インドの裏道に入ると、今でもよくあることですが、牛の通行で車が立ち往生してしまいます。会社の役員車輛はベンツですので、そのベンツに向かって、子供たちが押し寄せてきます。「お恵み」を貰うことを目的に、外国人が乗っている高級車は、子供たちに取り囲まれることがしばしばあるのが、インドの通常の姿です。
その子供たちに向かって、けたたましいクラクションで威嚇を行い、前方の道を開きながら、車は進まなければなりません。
日本人をはじめ、外国人は、この様子にも参ってしまうのですが、そのようなエリアは、インドでは普通の場所であって、その時、僕が目指したダリットのスラムではありません。
車が更に進むと、街の景色が、更に一変しました。
車によって来る子供の姿もなくなります。街に生気がなくなりました。まるで、ゾンビの住む廃墟のような建物が密集しています。
「目指している、ダリットが住むスラムに入った」と運転手が教えてくれました。
目玉を差し出して、バクシーシを乞う少女と出会う
車は舗装がされていない道を、徐行しながら進みます。
運転手曰く、ここでは、親が外国人の乗るクルマの前面に、子供を飛び込ませて怪我をさせ、カネを要求してくることがあるから、とのこと。
クルマは、どぶ川が流れる橋のところで停車しました。
川べりには、崩壊寸前とも見える建物が密集して並び、川は、ゴミで埋まって、水の流れが見えません。
クルマのウィンドウを空けると、とてつもない異臭が車の中に流れ込んできます。
運転手が嫌がるので、僕は車のドアを開け、外に出てみました。
最早、この世の終わり、絶望の最果てのような街の風景に、僕は圧倒されました。
ふと車を降りた僕のところに、10歳程度の少女が近寄ってきました。ガリガリに痩せ、生まれてから一回もシャワーも浴びたことがないのではないかというような髪をしています。
彼女は、僕の前に来ると、僕に手を差し出しました。
「バクシーシ!」(お恵みを!)
その時になってはじめて、僕は、彼女の顔が異様なことに気づきました。
ほりの深いインド人特有のその顔の右目がえぐれていたのです。右目の部分に、大きな真っ黒な穴が空いている、そんな顔に、僕は驚愕して見入りました。
そして、彼女の差し出した手から、異様な悪臭がしてくることに気づいたのです。
その手に握られている異様な物体が、その女の子の腐乱した目玉であることの気づくまでに、僕は数秒を要しました。
最早、いてもたってもいられません。周囲を観ると、大勢の人が、こちらに近づいてきます。まるで、恐怖映画の中に出てくるゾンビの群れのようで、流石の僕も恐怖感を覚えました。
運転手が、僕に「急げ!乗れ!」と叫びます。
僕は、この女の子のその目玉を載せた手に、2,000ルピー札(およそ3,000円)を1枚置き、急いで車に乗りました。
クルマは急発進をし、そのゾンビの群れから離れて、スピードをあげて、スラムから脱出したのです。
運転手は、帰りの車の中で僕に言うのです。
「親が子供の目玉をくりぬいて、外国人にお恵みを乞うのに使わせるんです。
ダリットは、売春すらこの国ではできませんから。
女は、外国人に身体を売ることもできないんです。」
今でも僕の夢に出てくる、あの少女の記憶
これは、もう数年も前の出来事です。
しかし、いまでも、時々疲れた夜に、あの少女が僕の夢の中に出てきます。
少女は、穴の開いた目のもう片方の目で僕を見つめて、僕に助けを求めてきます。
目が覚めて、いつも考えるのです、「あの少女は、まだ生きているのだろうか」、と。
インドの州政府との関係を基礎に、最新の設備で稼働をし、格安の電力と格安の人件費を武器に、世界に輸出をする野菜という製品を生み出す、僕の投資する工場のわずか数キロの距離に、あの女の子は、今でも、生きていられているのか、と。
僕の投資する工場では、インドの激しい新型コロナ禍において、従業員と家族を、都市の密から守るための社宅を完備し、生産される栄養価の高い野菜を主に使用した社員食堂を完備して、一日3食を完全に社員に供給し続け、新型コロナ禍では、外出した子供からの感染を除いては、社員や家族は、極めて衛生状態が高い環境で、感染を防ぎました。
しかし、一方、工場の外のインド社会では、医療が崩壊し、道端にウイルス感染した死体が山積みに放置される、中世のペストを思わせるような異常な事態が、各地で発生しました。
あの少女は、あのスラムで、果たして、コロナ禍を生き延びることができたのだろうかと、僕は、時々夢から覚めたアタマで考えます。
あの時、僕は、2,000ルピーを彼女に与えることしかできなかった・・・。
僕の事業は、インドの南部の都市で、雇用を生み、衛生環境が抜群な生活環境や福祉をインド人社員に提供し、生産される野菜という商品を輸出して、インド社会に大きな税収を還元しています。
しかしながら、そのインド社会の中の最底辺で生きる、あの女の子に、インド社会のカーストの厚い壁に阻まれて、僕は、雇用や医療、そして日々の健康的な食さえ、提供してあげることができない…。
身体がつかれて、寝付いた夜の夢の中に、今でも、彼女は現れて、僕に言います。
「バクシーシ」(お恵みを)と…。
僕は、インド社会の中で収益をえる事業家としての自分の目標の一つに、据えていることがあります。
いつか、あの少女を雇用し、親にくりぬかれた目の後を治療し、衛生的に保てる医療措置を受けられ、豊かで健康的な住まいと食を提供し、英語による教育を受け、いつか弊社のグループで、カーストのない世界で、彼女も活躍できるような、そんな企業を創ることを。
その時まで、彼女に生きていてほしいと、僕は夢から目覚めて願うのです。
続く
本稿の著者
松本 尚典
- 米国公認会計士
- 総合旅行業務取扱管理者
日本の大手メガバンクから社費留学で、米国の大学院に留学し、MBAを取得。
その後、ニューヨーク ウオール街で、金融系経営コンサルタントとして11年間、活躍する。米国公認会計士。
リーマンショックの前年、2007年に日本に帰国。
その後、自身で投資する企業をグループとして、URVグローバルグループのオーナー最高経営責任者に就任。現在も、世界各国の事業で活躍中。
インド事業としては、個人事業の形で現地有力企業の野菜工場ビジネスに出資。
インド タミル・ナードゥ州チェンナイに野菜第1工場、マハーラーシュトラ州ムンバイに野菜第2工場を建設。これらの事業を所有する、インド製造業のオーナーでもある。