プロローグ編 1989年冬。中央大学3年生だった僕が、崩壊するソ連を、一人で旅して考えたこと

1989年11月9日 ベルリンの壁が崩壊する

このコラムをお読みいただいている方で、ミレニアム世代やZ世代の方には、1989年の「ベルリンの壁の崩壊」という事件は、もう、教科書で習う、歴史上の事件という感覚で把握されていると思います。

ときは、バブルの最中。

日本は、人口ボーナス期の絶頂にありました。世界にはジャパンマネーが溢れ、日本は世界第2位の経済大国として、米国と経済力を競っていた時代でした。

日本人が、「ジャパンアズナンバーワン」という砂上の楼閣の夢に酔っていた頃、世界では、それまでの世界の枠組みを作っていた冷戦が、終焉に向かって動きだしたのです。

1945年。ナチスドイツと大日本帝国が敗戦。第二次世界大戦が終わった後の世界。

連合国は、その戦後処理を巡り、西ヨーロッパの修正資本主義・民主主義政体を基礎とする西側と、社会共産主義革命を果たして計画経済・共産党一党独裁政体を基礎とする東側が、世界を二分して対陣する冷戦構造に向かいました。

20世紀の後半の、約半世紀にわたる冷戦は、アメリカ合衆国とソビエト社会主義人民共和国連邦の対陣、NATO北大西洋条約機構軍とワルシャワ条約機構軍との対陣が、世界の各地で代理戦争というべき地域紛争を巻き起こしていきました。

1967年という、60年安保闘争の最中に、この世に生を受け、70年安保闘争の内ゲバを、幼いころから、母の隣に座ってニュースで見て育った僕にとって、思春期を迎えた頃から、古典的資本主義から、修正資本主義や新自由主義に流れる資本主義の系譜や、古典的資本主義を否定して共産党独裁のもとで、計画経済を進めるマルクス・エンゲルス主義の系譜は、経済と政治哲学の両面から、大きな関心事でした。

ところが、70年代から80年代にかけ、計画経済陣営は、大きな機能不全に陥ります。

そしてついに、1980年代の終わりに、計画経済陣営は破綻を起こしました。その象徴的な事件が、ベルリンの壁の崩壊でした。

ソルジェニーツィンが「収容所列島」の中で描いた、スターリンのひいた「鉄のカーテン」は、80年代に、大きく崩れ始めていました。そして、1989年11月9日のその日、東西冷戦の象徴であった、ベルリンの壁を民衆が壊している映像に、大学3年生であった僕は当時、見入っていました。

中央大学の法学部生であった僕は、大学で日本国憲法と、そのよって立つ自由主義・民主主義の理念を基礎に、法律にアプローチして考えるリーガルマインドの訓練をしていました。法律学というステージで、自分の思考力を鍛えていましたが、そのような視点から、当時、ソ連が盟主となって進めた社会主義・共産主義が目の前で崩壊する様子をみていたのです。

当時の僕は、企業法学の専門家だった高名な学者であった中央大学の名門ゼミのゼミ生でした。その指導教授のアドバイスと推薦を受けて、大手銀行に就職先を絞って活動をし、早々に、数行の銀行の内定を、大学3年生の秋には受け取っていました。

大学の単位も、大学1年生と2年生で、あらかた卒業に必要なものをとってしまっている状態でした。

そんな中で、1989年11月のベルリンの壁の崩壊のニュースをみたわけです。

ロシア革命によって、世界最初の社会主義国家を成立させ、その後、ソビエト社会主義連邦体制のもとに、東側諸国を組み込み、アメリカ合衆国を一時期は大きく凌ぐ経済力を獲得したはずの、世界最大の連邦国家と、それがよって立つマルクス・レーニン主義が、何故、崩壊したのか?

就職先として、金融機関という資本主義の権化のようなところに身を投じることを目指していた僕にとって、それは、どうしても、学生時代に深く考えておきたい課題でした。

ソ連へ入るビザを取得し、厳冬のウラジオストックへ

しかし、当時のソ連は、まさに、鉄のカーテンで、西側と仕切られた、恐怖国家でした。日本人の学生が、旅行気分で入れるようなところではありません。

しかも、11月という、北半球が冬に入るときでしたので、その国土は、氷点下の地獄のような場所です。

それでも、僕は、ある総合商社の方からのアドバイスとご紹介をうけて、ソ連への入国や旅行手配を専門に行っている、小さい旅行社の支援を受けながら、ソ連への入国ビザや、チケットなどの手続きを準備することができました。

そして、北海道を経由して、極東の街 ウラジオストックから、ソ連に入国することに成功したのです。

ウラジオストックから、シベリア鉄道で、モスクワへ旅立つ

1月のウラジオストック。

ソ連の冬の寒さは、北海道のそれとは比べ物になりませんでした。外気は、冷たいというのを通り越して、痛い感じで、野外で、肌を少しでも露出をさせようものなら、瞬間で、凍傷になるほどです。

吐息が瞬間で凍り、顏に張り付き、男性で髭を生やしているヒトの髭は、一様に真っ白でした。

このような状態でも、街路には普通に車が走っていました。しかし、ソ連の崩壊が迫っていた当時、街には活気がなく、外食をとるような店は、まったくありません。

私有財産制が認められていない当時のソ連では、食糧は基本的には配給制のはずですが、既に、当時は、配給制度は崩壊しており、街には、闇市がたっていました。人々は、そこで、食糧や日用品を調達して、なんとか暮らしていたような状態でした。

ウラジオストック駅は、モスクワ鉄道の、極東の終点。

僕は、そこから、モスクワ鉄道の寝台列車に乗り込みました。

21世紀の今、ロシアの経済が安定した後のシベリア鉄道は、特急列車で、モスクワとウラジオスットク間というユーラシア大陸の約半分を走るのでも、車中泊で、7泊8日程度で走破できます。

しかし、このときは、日本ではみたこともないほど、旧式の鈍行列車だけが走っていたような状態でした。

モスクワに到着する日時は、まったく未定。列車内で、知り合ったロシア人たちは、僕が、日本人で、モスクワまで走破する予定だというと、一様に目を丸くしました。

列車は、時速30km程度のスピードで、しかも、原野の真ん中で、しょっちゅう、故障を起こし、故障のたびに、止まってしまって、はたして、いつ動くのか、すら、定かではないのです。

つまりは、モスクワ鉄道で、当時のソ連を横断すること自体が、命がけだったのです。

一体、このソ連という邦は、モスクワの中央政府が、どうやって、この世界一の極端に広大な国土を、統制しているのか、と、出発前の僕は、疑問に思っていました。

ソ連を横断する唯一の手段であるモスクワ鉄道に乗ってみて、その疑問が解けました。

つまりこの邦は、モスクワが、全土を統制するような行政的な施策は、皆無なのだということが、よくわかったのです。

ロシアの国土と、人々の感覚

列車の車窓は、何日も何日も、行けども行けども、どこまで広がっているのか想像できないほど、広く深い森。

ロシア文学者の木村浩氏は、「ロシアの森」の中で、次のように書いておられます。

「ロシアの森には、ロシアの美しさも、豊かさも、不屈も、従順さも、謙虚さも、闘志も、自信も、限りないなつかしさも、明日にかける夢も、痛ましい想いでも、何もかも一つの柔らかい調和のなかに溶け込んでいる。」

しかしながら、モスクワ鉄道の中から、ひたすら続く森は、僕にとって、木村氏の言われるような、文学的感傷を感じるものには、見えませんでした。

真昼でも、氷点下の外気が普通で、どこまで深いのかまったくわからない森は、僕たちが抱く「森」のイメージを遥かに凌ぐ、恐怖の対象でしかないように、僕には感じました。

深く、暗く、恐ろしく、不気味で、残酷な存在。

ヨーロッパにおける豊かな実りをもたらす森とは、まったく違う、魔物のような存在。

ソ連の南に広がる地には、遊牧民ら暮らす草原が広がり、そこには、ユーラシアを支配したモングル民族が住んでいたわけです。彼らは、騎馬民族で、歴史的に、数限りない、ロシアの国土への侵略を行ってきました。

一方、このロシアに広がる森は、騎馬民族の侵略を防ぐための、軍事的なシェルターの役割を担ったと歴史的には考えられています。しかし、僕には、全く、そのように見えませでした。この森には、迷い込んだら二度と出てこられない底なし沼のような深さを感じるわけです。

ロシア人たちは、その広大な国土の殆どを、凍てつく恐ろしい森に囲まれ、騎馬民族からの襲撃と、この森の恐怖に絶えず怯えながら、長い歴史を生きてきたのだと、僕は、感じました。

このロシアを覆いつくす森や、その広大な国土が接する多くの国からの侵略が、日常になったロシア人たちが、「強大な権力」への依存でしか生きるすべを見いだせなかったことは、当然でしょう。

僕は、この旅の数年後から、アメリカのコンサルティングファームの人間として、ロシア企業を通して、多くのロシア人ビジネスマンと交遊を深めました。

その中で、僕が気付いたのは、彼らが、僕ら西側の人間が、ソ連の人々の人権を大侵害したと信じているスターリンを、自分たちの優れた指導者として崇拝する方が多いという事実でした。

フルシチョフや、ゴルバチョフなど、西側からみると、ソ連の「鉄のカーテン」からソ連の人民を救ったと見える政治家は、一様にロシア人から人気がないのです。

寧ろ、絶対的な権力者として君臨したスターリンを、ロシア人たちは、英雄と評価していました。おそらく、この感覚は、今のプーチン大統領を強く支持するロシア人の感覚にも通用するのではないかと思います。

広大な国土があるにも関わらず、ウクライナ侵攻に固執するロシア人の心は、ロシアの凍てつく凍土に立ってみなければ、理解できないと、僕は思っています。

彼らにとって、南に南進することを指導するプーチン大統領は、非常に強い信頼感のおける大統領なのだと感じているのではないかと僕は思っています。

列車が止まると、盗賊団が平気で乗り込んできて、貨物を奪ってしまう鉄道

さて、シベリア鉄道の話に戻りましょう。

先ほど、僕は、次のように書きました。

「時速30km程度のスピードで、しかも、原野の真ん中で、しょっちゅう、故障を起こし、故障のたびに、止まってしまって、はたして、いつ動くのか、すら、定かではないのです。」、と。

当時のシベリア鉄道は、整備がいったいどうなっているのかと、思うほど、しょっちゅう、故障で動かなくなりました。

少し進むと、止まってしまい、故障ということで動かなくなります。そして、ここが、当時のソ連の凄いところなのですが、運転士や車掌は、動かなくなっても、一向に知らんぷり。整備の担当でない職員は、整備のチームが来るまで、まるで、何もする気はないのです。

立ち往生しているのは、原野や深い森の中。

そんな故障中の出来事でした。突然、外が騒がしくなってきました。

一体何が起きたのかと、寝台車の外に出てみると、何やら、外から集団で列車に乗り込んでくる男たちがいます。

どうも、整備士ではないようです。

僕が、目を丸くしていると、英語をカタコトで話せる男性が、僕に教えてくれました。

「あれは、盗賊団だ。」と?!

シベリア鉄道には、僕たち乗客のほかに、多くの国の物資が積まれ、運搬をされているのですが、その物資が、男たちによって、勝手におろされているのです。驚いたことに、運転士も車掌も、それをみていて何も言いません。

「武装しているから、下手に関わって、怪我をしたくないのさ。」
彼は、僕にそう教えてくれました。

「あの物資は、ソビエト連邦の管理物資ではないのですか?
もし、警察につかまれば、大罪になるのではないですか?」

僕がそう聞くと、彼は首をかしげました。

「さあね? 盗んだ物資を、奴らと警察で、山分けして、終わりだろうね。」

なるほど。これでは、ソ連は崩壊するなあと、僕は、妙に納得しました。

領得罪と、社会主義

当時、僕は法学部の学生でしたので、その事件を目撃しながら、僕のアタマに浮かんだのは、日本の刑法学の、「領得罪」の定義でした。

日本の刑法学では、窃盗罪や強盗罪・詐欺罪・横領罪などの犯罪を、器物毀棄罪のような犯罪と分けて、領得罪と呼びます。

この領得罪は、器物毀棄罪などの「壊してしまう」罪よりも、日本では刑罰が重いわけです。領得罪は、モノそのものを毀滅していないわけですから、本来であれば、毀滅してもとに戻せない犯罪よりも、刑は軽いと考えることもできるはずです。

しかし、そうなっていません。

何故かというと、そこに関係するのが、日本の最高裁判所の判例で確立された、「不法領得の意思」があるから、なのです。最高裁は、不法領得の意思を、「権利者を排除して、他人の物を自己の所有物として、その経済的用法に従い、利用処分する意思」と定義しています。

領得罪は、他人の物を自己の経済的な目的で利用する悪い意思に基づき、行われる犯罪であり、そのような行為は、私有財産制を認める社会や国家において、器物を棄損する行為よりも、反社会性が高いため、これを重く処罰するというのが、最高裁の考え方なわけです。

つまり、領得罪を重く処罰するという考え方、自体が、私有財産制を基本に成立する資本主義的な発想から来ているわけです。

共産主義社会は、私有財産を認めません。従って、マルクス・レーニン主義に基づく教育を受けた人間は、「他人のモノ」という概念が希薄であり、それを盗む行為は、それほど悪いとは思っていないわけです。

勿論、共産主義に移行過程の社会主義においては、国家の所有物を認めますので、これを盗めば、国家の法益侵害にあたる行為として処罰されるはずです。

ところが、ノルマに管理されて、それ以外の労働を行うことを一切しなくなった当時のソ連の人々からすれば、警察に見つかった時には、警察官と、ヤマ分けして、見逃して貰えればよい、という程度の規範意識しか持ち合わせていないわけです。

このようにして、ソ連という社会は崩壊したのか。
僕は、この盗賊団と、その窃盗行為を「温かく見守る」人々を観ながら、非常に、納得してしまったわけです。これでは、地方の物資がモスクワに送られることはなく、国家は崩壊するでしょう。

そして、このようなシベリア鉄道での旅の体験は、僕に、「日本という狭い社会の常識」では計り知れないことが、この世界には溢れているのだ、という強い印象を残してくれました。

日本という狭い社会、日本人だけで共有する意識。

そこだけに閉じこもっていたのでは、視野狭窄に陥って、今、崩壊しつつあるソ連の実態すら、想像もできなくなる、ということに、当時、21歳だった僕は、強烈に思い至りました。

この想いが、僕を、その約5年後、日本の金融機関というエリートコースを捨てさせて、アメリカ留学に羽ばたかせた、原動力の原点になった体験だったのです。

バイカル湖で、ソ連兵に尋問を受け、危うく連行されそうになった話

そして、シベリア鉄道での旅は、まだまだ僕に、強烈な試練を課してきます。

当時のソ連の極東地域には、勿論、観光地などというものは存在していませんでした。ただ、僕は、どうしても、バイカル湖を観てみたかったのでした。

バイカル湖は、シベリアと、モンゴルの平原の境目に位置する大きな湖で、冬は当然、全面、氷で覆われます。

水温は、一年を通して零度を下回り、したがって、ほとんどの生物は生存できないため、その透明度は世界一です。

日本で言う、北海道の摩周湖のような神秘的な湖と僕は感じていました。北海道の摩周湖は、年間を通して霧に覆われ、その姿をはっきり見せるのは、年に5日程度しかない、幻の湖です。

その美しさは、深窓の令嬢に例えられ、したがって、摩周湖の姿を観た男は、生涯、他の女性と結婚ができないという伝説を生むほど、その姿は、美しいものです。僕は、高校生の頃、その「深窓の令嬢の摩周湖」に魅せられ、その姿を自分の目で観たいと思い、阿寒に宿をとって、毎日、摩周湖に通いつめ、その姿をみてきた経験がありました。

それと同じように、ソ連のバイカル湖にも、非常に魅せられており、なんとか、バイカル湖を観たいと思ったのです。

シベリア鉄道を途中下車し、バイカル湖岸鉄道に乗り換え、バイカル駅を目指しました。

バイカル湖岸鉄道のバイカル駅は、いまでこそ、新しい建物になり、観光地化していますが、当時の駅は、本当に、「最果て」という名にふさわしい駅でした。

バイカル駅から、僕は、バイカル湖を徒歩で目指し、氷に閉ざされたバイカル湖に辿り着いたのです。

一面に厚い氷が張られたバイカル湖の湖畔にしゃがみ込み、その氷の割れ目を見つけて、そこを覗き込んでいた時でした。

背後に、ヒトの気配を感じ、顏をあげた僕は、5名のソ連兵に、いつのまにか、取り囲まれていることに気づきました。

僕は、ロシア語の、激しい口調でどなられ、全員が、一斉に僕に銃口を向けてきました。

とにかく、「手をあげろ!」と言われていることを悟り、僕は、荷物を放り出して、手をあげました。全員が、銃の安全装置をはずしており、もし、僕が不審な動きをすれば、一瞬で、僕は、蜂の巣のように銃を打ち込まれ、肉塊となって、バイカル湖の氷の隙間に投げこまれることでしょう。

ここは、西側の主権が及ばない、鉄のカーテンの内側なのです。

ロシア人の兵士は、スラブ民族特有の威嚇感があり、5名に銃を向けられると、非常に恐ろしいものがあります。

動転している僕に、ロシア語が、うまく通じないと分かった兵士は、僕を、車道に留めてあった軍事車両に連行し、僕は、そこで、取り調べを受けることになりました。

パスポートやビザを確認され、日本人であることが確認されると、兵士の中の責任者らしき人物が、僕がここへ来た目的を問いただしてきました。

バイカル湖は、モンゴルや中国との境にあるため、黄色人種であった僕は、情報収集をしているスパイの容疑がかかっているんだなと感じました。

ベルリンの壁が崩壊し、国家としてのソ連が崩壊に向かっていた当時ですから、軍の統制も効いていないことが予測できます。僕は、自分を強いて落ち着かせ、冷静に、片言のロシア語や英語をまじえて、合法的にソ連に入国している観光者である旨を伝えました。

1時間ほどで嫌疑が晴れた僕は、その兵士たちの軍事車両で、一番近い、シベリア鉄道の駅まで送られ、そこで解放されました。

最後にかけられた言葉は、
「二度と、国境付近に近寄るな。国境付近では、銃殺されても、誰も文句は言えない。」
でした。

広大な国境線を持つソ連は、その国境線で、非常に厳重な警戒態勢をひいているのだと僕は、気づきました。

バイカル湖は、南の国との軍事的な緊張エリアだったのでしょう。そこに、不用意に立ち入った僕は、あやうく、命を落としかけました。

ついに、モスクワへ到着 赤の広場に立つ

このような、かなりハードな経験を積みながら、僕は、ウラジオストックを出発して、40日以上をかけて、ようやく、モスクワに到着しました。

途中で、列車が動かなくなった回数は、数え切れませんでしたが、その長い時間の中、列車に乗り込んでは降りてゆくソ連の庶民の方々と、片言のロシア語で話しをし、共産主義社会に生きる庶民の方々の考え方や、ロシアという巨大な地に住む人々の話を、日露辞典を片手に聴いたことで、僕は、自分が日本という非常に狭い世界の中での常識からでしか、物事を考えてこなかったことに、大きな危機感を覚えたのでした。

ソ連の、この体験で培ったことは、今後、特集「ロシアビジネスを、あえて今、考える」の中で、ご紹介したいと思います。

モスクワから、ルーマニアへ 「ドラキュラの居城」プラド城を目指す

モスクワで、しばしの休息をした僕は、その後、モルクワから、今のルーマニアに向かいました。この当時のソ連では、ルーマニアは、ワルシャワ条約機構の守る東側の鉄のカーテンの内側でした。

僕は、ルーマニアの英雄で、オスマン帝国(今のトルコ)のイスラムの侵攻から、キリスト教西側世界を守ったにも関わらず、文明国であったオスマン帝国側の文書によって、極めて残忍な領主「くじ刺し公」と記述され、「吸血鬼ドラキュラ」のモデルになった、ヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世)の居城に立つべく、ルーマニアを目指しました。

ソ連時代のルーマニアのヴラド城は、まさに、誰も近寄ることがない、世界最恐の心霊スポットでしたが、ここに、僕は、この後、単身、向かったのです。

この旅のことは、ルーマニアの特集を書くとき、発信をしたいと思います。

続く

本稿の著者

松本 尚典
URVグローバルグループ 最高経営責任者兼CEO

松本 尚典

  • 米国公認会計士
  • 総合旅行業務取扱管理者

1990年、中央大学法学部法律学科卒業。
日本のバブル期に大学生時代を過ごす。大学に通いながら、当時台頭していた、大手量販店小売企業の創業社長の特命スタッフに、大学1年生時にスカウトされる。そして、新規事業開発・新店開業、そして企業買収などのハードな仕事を経験し、経営の道に進むことを決意する。

新卒で、大手銀行への就職内定が決まった後の大学3年生の11月に、ベルリンの壁が崩壊。ワルシャワ条約機構軍によって閉じられていたソ連や東欧の「鉄のカーテン」が崩壊すると、大学時代に働いて貯めた資金をすべて持って、崩壊するソ連への渡航を、一人で実行する。そして、極東のウラジオストックからモスクワへ、シベリア鉄道で、単身旅をし、更に、東欧を旅して、ルーマニアにまで入国した経験を持つ。

1990年、新卒で、日本の大手銀行に入行。銀行からシンクタンクに配属され、金融系経営コンサルタントとして仕事を開始。その後、銀行より、アメリカ ハーバードビジネスクール(経営大学院)に社費留学。

ハーバードビジネスクールでMBAを取得後、日本の銀行の退行を決意。米国ウォール街にて、国際的な金融系コンサルティングファームと契約。ロシア企業への経営支援業務も多数経験する。

2007年より日本に基盤を移し、日本国内の大手企業の役員の歴任をえて、URVグローバルグループのホールディングス会社 株式会社URVプランニングサポーターズ(松本尚典が100%株主、代表取締役)を2015年に設立。現在、世界に広がるURVグローバルグループの各社を持つ、グループCEOとして活動中。

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